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【あらすじ】有村架純が保護司を演じた映画『前科者』が抉る、罪を犯した者を待つ「更生」という現実

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映画『前科者』が描く「犯罪者の更生の現実」と、「有村架純演じる保護司の葛藤」に色々と考えさせられた

「自分のために行動する人」が好き

私は、「自分のために行動する人」のことが好きだ。しかし、これには少し説明が必要だろう。

決して、「自分勝手に生きている人」という意味ではない。そうではなく、「『誰かのため』と捉えられがちな行動を『自分のためにしている』と自覚している人」が好きなのである。意味が伝わるだろうか?

これは私の中では、弁護士や医師など「報酬を受け取る職業」の人にも当てはまる話なのだが、ちょっと軸がブレるように思うので、分かりやすいように「ボランティア」を例に挙げよう。ボランティアは普通、「誰かのためにしている」とみなされると思うし、従事している当人もそういう認識で行っていることが多いだろう。しかし私は、とても勝手な意見だと理解しているのだが、正直、「誰かのためにしている」という感覚をあまり信じていない。

もちろん世の中には、医師でありながらアフガニスタンで用水路建設に生涯を費やした中村哲のように、「どう見ても『誰かのため』としか言えないような生き方をしている人」もいる。だからそのすべてを否定したいわけではないのだが、一方で、そういう人は決して多くはないと考えてもいるのだ。これは別に「『誰かのため』という感覚を持つなら100じゃなきゃいけない」みたいな話ではない。誰もが0から100の割合のどの程度かで「誰かのため」という感覚を持っているだろうし、そこにグラデーションがあること自体は全然いい。ただやはり、「誰かのため」と”主張する”のであれば、そのレベルは「100に近いもの」であってほしいと思ってしまうし、そしてそういう人は決して多くはないと私は考えているのである。

だから、例えば70~80程度の「『誰かのため』という感覚」を持っているような場合に、「これは自分のためにやっているんだ」と自覚している人の方が好ましいと私は思っているのだ。私のこの感覚は伝わるだろうか?

ここには、「『あなたのためにやっている』という”圧”が苦手」という理由もある。

さて本作『前科者』では、出所した元犯罪者の更生に関わる保護司が描かれるのだが、まず1点、もしかしたら広くは知られていないかもしれない情報を提示しておくことにしよう。保護司が行うのは、「定期的に元犯罪者と面談する」というなかなかに大変な仕事だが、なんと無給のボランティアなのである。そして、もし私が元犯罪者で、保護司と関わらなければならなくなった場合に、「『あなたのためにやっている』という”圧”」を保護司から感じてしまったらしんどいなと思う。これは他の状況でも同じである。私は大体において、「『あなたのためにやっている』という”圧”」がすこぶる苦手なのだ。

だから私は、自分はそういう雰囲気を発しないように気を付けているつもりだし、さらに、「自分のためにやっている」という認識の方が優位な人と関わりたいとも考えているのである。

「弱さ」が誰かにとっての「救い」になることだってあるはずだ

本作『前科者』の中で、私が一番好きなシーンを紹介しよう。女性2人がコンビニの前で話をしている場面でのやりとりだ。1人は保護司の阿川佳代で、もう1人は、かつて彼女が保護司として担当した元犯罪者のみどりである。そして佳代がみどりに、「更生を手助けするなんて大口叩いてきたけど、私には何もできない」と弱音を吐くシーンがあるのだ。

佳代のそんな吐露を受けて、みどりは自身の子ども時代や刑務所時代の話を始める。彼女は子どもの頃、「親が男漁りに行く時は500円もらえる」という環境で生活していた。しかし、母親が1週間帰ってこないこともしばしばで、そんな時は、「私は世界一不幸な子どもだ」と考えていたそうだ。しかし刑務所に入って、「世の中は自分みたいな人間ばかりなのだ」と気付いたという。それに、罪を犯してから出会った人間は「弁護士」や「検事」のような”真っ当な人間”ばかりで、「世間を代表しています」と言わんばかりの顔で「これからは真面目に生きろ」みたいなことを言ってくる。でも、「あたしたちのような前科者がいるお陰で『世間の代表』みたいな顔が出来るんだろ」って思ってたし、だからあいつらの言葉なんか全然耳に入ってこなかった。

そんな話を滔々と続けた後で、みどりは佳代にこんなことを言うのである。

でも、佳代ちゃんと会って考えが変わったんだ。私らみたいな人間以外にも、こんなに弱い人間がいるんだ、って。

さらに続けて、こんな風にも念押ししていた。

前科者に必要なのは保護司なんかじゃない。佳代ちゃんみたいな人だよ。

凄く良かったなと思う。

佳代は保護司としての自身のあり方に悩んでいる。というのも、彼女にはどうしても振りほどけない過去があり、その過去に導かれるようにして保護司になったという経緯があるからだ。もちろん彼女の中には、「前科を持つ者たちの更生に真摯に向き合いたい」という強い想いがある。しかしそれと同時に、彼女はどうも、「自分は自分のために保護司をしている」というある種の”後ろめたさ”みたいなものを感じているように見えるのだ。

そして彼女は、そのことに葛藤を抱いている。「罪を犯してしまった人たちに寄り添いたい」という気持ちは決して嘘じゃない。しかし実際には、過去に囚われている自分自身のために保護司を続けているのだ。それが彼女には「中途半端」だと感じられているのだろうし、また、「そのせいで『取り返しのつかない事態』を引き寄せてしまったのではないか」とも考えているのである。

みどりは別に、佳代が抱えているそんな葛藤について具体的に理解しているわけではない。しかし、長い付き合いで感じるものがあったのだろう。「佳代ちゃんのその弱さが良いんだよ」という言葉で彼女の背中を押すのである。そのような感覚はよく理解できるなぁと思う。私も、犯罪者ほどではないにせよ、「社会の割と低い方」を生きてきた自覚がある。そしてだからこそ、「弱さ」によって相手を信頼できたり、自分を託せたりするのだ。「前科者に必要なのは佳代ちゃんみたいな人」というのは本当によく分かる。さらにこの言葉は、彼女を勇気づけるものでもあるが、同時に、現行制度の限界を示してもいると言えるだろう。

犯罪者だって「何かの被害者」である

また、「罪を犯してから出会うのは“真っ当な人間”ばかりだった」というみどりの“不満”も、凄く分かるなぁという感じがした。

私は以前、『プリズン・サークル』というドキュメンタリー映画を見たことがある。これは、島根県に実在する刑務所「島根あさひ社会復帰促進センター」に密着した作品で、「日本初の新たな取り組み」を行う刑務所として注目されているのだ。

その「新たな取り組み」は「TC」と呼ばれている。「Therapeutic Community」の略で、「治療共同体」と訳されることが多いようだ。元々は「薬物依存者や精神疾患患者が対話を通じて回復を目指す仕組み」として始まったそうだが、それを刑務所にも応用した形である。「島根あさひ社会復帰促進センター」では、「受刑者同士が様々な形で対話を行うことで更生に寄与すること」が期待されているのだという。

そして、そんな「TC」を映し出す映画の中で、特に印象的に感じられた場面がある。グループセラピーの最中に受刑者の1人が、「自分だって被害者だ」と口にするシーンだ。加害者であることはもちろん理解しているが、自分も「虐待の被害者」だったし、誰かがそのことを認めてくれないと「加害者としての立場」になんか立てない。そんな風に訴える者がいたのである。

「なるほど」という感じだった。確かにその通りかもしれない。そしてこの言葉は、本作『前科者』で描かれる状況にも当てはまると言えるのではないかと思う。

一応書いておくが、「自分も被害者だった」みたいな主張が通るはずのない犯罪者だってもちろんいるし、それまでの生い立ちなどにまったく関係ない身勝手極まりない犯罪も存在する。だから以下の話は、すべての犯罪者に当てはまるわけではない。ただ一方で、「そういう境遇にいなければ罪を犯さなかっただろう人」もいるわけで、私はそんな、映画『プリズン・サークル』や映画『前科者』で描かれるような犯罪者に言及しているのだと理解してほしい。

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