【天才】「三島由紀夫vs東大全共闘」後に「伝説の討論」と呼ばれる天才のバトルを記録した驚異の映像
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三島由紀夫の器の大きさが印象的な討論
私の基礎知識と、映画を見た感想
まず、この映画を見る前に私が持っていた基礎知識について書いておこう。これは、「これほど基本的な知識さえ持っていない状態でもこの映画を楽しむことができる」と伝える意図で書くものだ。
私はそもそも、「右翼」と「左翼」、あるいは「保守」と「革新」などの用語の意味がイマイチ理解できない。要するに、政治などの世界で語られる「右」「左」の意味がよく分かっていない、ということだ。
私がなんとなくイメージしている理解を書いておこう。
まず「右翼」というのは、どうしても「街宣車」のイメージがあり、「天皇を崇拝」している感じがする。というわけで、「愛国」みたいなことなのだろう。で、「左翼」というのは恐らくその反対なのだろうが、何に対しての「反対」のかがよく分かっていない。「愛国的な立場」と逆ということなのだろうか。あるいは「右翼」と「左翼」というのは正反対の関係ではなく、「右翼とは、左翼ではないこと」「左翼とは、右翼ではないこと」というぐらいの関係性なのかもしれないと考えたりもする。
なんとなく、「全共闘的なもの」が「左翼」なのだろう、とは思っている。ただ「全共闘的なもの」というのが何を指しているのか、よく分かっていない。「右翼(愛国)」が、「古来からの日本をそのまま残す」ということなら、「左翼」は「外国に対しても開かれた形にする」ということだろうか?
政治的な立ち位置に関しても「右派」「左派」などと説明されることがあるが、それも具体的に何を意味しているのか分からない。なんとなく言葉のイメージから、「保守」と「右翼」が近い感じがするので、そうなると「革新」は「左翼」だろうか。
というのが、私の「右翼」「左翼」に関する認識である。つまり、全然分かっていない。だから本を読んでいてもニュースを見ていても、こういう右とか左とかの話が関係してくると、途端に理解不能になる。
という人間が、この映画を見た。
メチャクチャ面白かった。
基礎知識がないために、恐らく、彼らの討論を正しい形では理解できていないだろう。彼らの討論はもちろん、あらゆる前提が共有されているという了解の元で行われているだろうから、基礎知識のない僕には難しい部分も多かった。
しかしこの映画では、橋爪大三郎・平野啓一郎・内田樹といった知識人や、三島由紀夫が立ち上げた「楯の会」の元メンバー、全共闘で闘った人などが登場し、討論に関する解説を加えてくれるので、そのお陰でなんとなく理解が追いつく部分もあった。
いずれにしても、私は私なりの理解でこの映画をもの凄く楽しんだし、基本的に頭の良い人間に興味があるので、知と知のぶつかり合いには興奮させられた。
三島由紀夫と東大全共闘の討論が行われるに至った背景
まずは、この伝説の討論がなぜ行われることになったのか、その流れを追っていこう。前述の通り私は、基礎知識がまるでないので、この映画の中で説明された事柄だけでこの説明を行う。不備や誤りがあるかもしれないが、ご容赦願いたい。
討論が行われた前年の1986年は、「政治の季節」と呼ばれた。世界では、「プラハの春」や「五月革命」など、様々な革命が同時多発的に起こっていた。日本では全共闘が全盛であり、反戦・平和を訴える街頭闘争があちこちで起こり、東京は学生と機動隊による戦争状態と言っていいほどだった。そんな日々は、日本でも革命が起こるのではないかという予感を抱かせたのだ。
映画に登場する「楯の会」の元メンバーは、インタビューアーから「共産主義革命が本当に起こるのだろうかという恐怖心を抱いていたか?」と聞かれて「YES」と答えている。そういう意識を持つ人は、当時東京にそれなりにいたことだろう。
「楯の会」は、そんな日本の状況に対応すべく、大学生を中心に構成された私的民兵組織だ。反革命・反共産主義を掲げ、いざ何か事態が動いた際には率先して動けるように日頃から訓練を行っていた。「楯の会」のメンバーは三島に連れられて自衛隊の体験入隊を繰り返したという。全共闘と対峙することになっても、自分たちが日本刀を抜けば決着がつく、という三島の意思を感じたそうだ。映画の中では、「楯の会」の元メンバーが、もう時効だろうからと、自衛隊の訓練で実弾射撃を行ったことがある、と語っていた。
1969年1月に、安田講堂事件が起こる。前年に誕生した東大全共闘は強硬な態度で、暴力も辞さない覚悟だった。しかし、放水と催涙弾によって安田講堂は陥落してしまう。
この後、次の一手として東大全共闘が考えたのが「三島由紀夫との討論」だった。安田講堂事件をゼロにしてはいけないと「東大焚祭委員会」を立ち上げ、三島との討論への準備に動き出す。
当時三島は政治的な発言を繰り返すようになっていた。また、川端康成と日本初のノーベル文学賞を争っており、世界的な知名度も抜群だ。さらにメンバーの一人が、三島の「文化防衛論」を読んでいたこともあり、「東大全共闘と日本を論じよう」と三島を引き込むことに決めたのである。
こうして、三島由紀夫との討論が決まった。日時は1969年5月13日。三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で自殺する一年半前だ。安田講堂があるキャンパスとは別の、駒場教養学部の大講堂900番教室で、1000人の東大全共闘を相手にすることになる。
「右翼・保守」の大物である三島由紀夫と、「左翼・革新」の東大全共闘1000人の、伝説の討論の始まりだ。
この討論の告知ポスターに、学生たちはゴリラを模した三島由紀夫の絵を描いた。「近代ゴリラ」とバカにした呼び方をし、「飼育料 100円以上」と記載するなど挑発する。東大全共闘が「舞台上で切腹させてやる」と息巻いているという噂もあり、「楯の会」のメンバーは密かに会場の前列に紛れ込み、状況を見守ることにした。
この討論を唯一カメラに収めていたのがTBSだった。東大全共闘が何か別の取材でTBSとだけ関わりがあったとかで、彼らはTBSにだけ声を掛けていたという。そんなTBSだけが保管している貴重映像を元に作られたのがこの映画である。
三島由紀夫の物腰の柔らかさ
討論そのものをすべて理解するのは難しく、理解できない部分の方が多かったが、映画を見ながら非常に印象的だったことがある。
三島由紀夫の物腰が実に柔らかいのだ。
司会を務めた木村修は、当時を振り返って、
と語っていた。私には実感はもちろんできないが、普通に考えて、まったく主義主張の異なる相手に呼ばれ、「1対1000」という討論を仕掛けられ、「ゴリラ」とまで言われているのだから、穏やかな気分ではないだろうと思う。
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