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【感想】阿部サダヲが狂気を怪演。映画『死刑にいたる病』が突きつける「生きるのに必要なもの」の違い

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「『生きていくのに必要なもの』は人によって違う」という事実をどう社会に組み込むべきか。映画『死刑にいたる病』を観て改めて考えさせられた

映画『死刑にいたる病』の感想は基本的に、「連続殺人鬼・榛村大和のサイコパスっぷりに衝撃を受けた」みたいな感じであるべきだろうなぁ思います。榛村大和というのはこの映画の主人公であり、判明しているだけでも24名もの高校生を残虐に殺害した人物です。逮捕され、裁判に掛けられますが、まったく反省した様子を見せないまま死刑判決が下りました。そんな「異常者」に恐怖するのが“正解”でしょう。

しかし私は、どうしてもそういう感覚にはなりませんでした。それは決して、「榛村大和という人物に共感できてしまった」みたいな話ではありません。もちろん、犯罪行為を犯したのであれば処罰されなければならないし、何の罪もない者を無慈悲に殺害し続ける異常者は、残念ながら社会から退場してもらう必要があります。映画のそういう展開に対して違和感を覚えたみたいなことでもありません。

私がこの映画を観ながら考えていたのは、「生きていくのに必要なもの」のことです。コロナ禍になって以降、私はそれまで以上にこの点について頭を巡らせるようになりました。

ただその話は、この記事では詳しく触れません。以下にリンクを貼った、『Ribbon』『ぼくのエリ』『人と仕事』の記事で詳しく書いているので、是非そちらを読んでみてください。

要点だけざっくり書けば、「『生きていくのに必要なもの』は人によって違うのだから、その違いを社会がどう認め、どう共存していくべきか」となるでしょうか。コロナ禍では、多くの行動が「不要不急」として制約されましたが、その「不要不急」とされた行動が、人によっては「生きていくのに必要なもの」であるかもしれません。そういう想像力をもっと持つべきではないかと私は考えているのです。

それでは、「生きていくのに必要なもの」と絡めながら、「榛村大和」という人物について少し考えを進めていきたいと思います。

「生きていくのに必要なもの」が「殺人」である人生について考える

榛村大和にとって「殺人」は、彼自身が生きていくのに必要不可欠なものでした。それが分かる場面があります。裁判中、「もし逮捕されていないとしたら、今でも(殺人を)続けたいと思いますか?」と聞かれた榛村大和は、次のように答えるのです。

はい。僕にとっては必要なので。

彼の中では明確に、「殺人」は「生きていくのに必要なもの」と捉えられているというわけです。

さて、この話の中心には「殺人」という到底許容できない行為が存在するので、即座に「そんなことあり得ない」という反応が引き出されるだろうと思います。しかし、同一視するなと怒られるかもしれませんが、世の中には「自身の快楽が、他者の迷惑になる行為」はたくさんあるはずです。ざっと考えてみても、「喫煙」「公共空間でのスケートボード」「観光地での食べ歩きやポイ捨て」などいろいろ挙げられるでしょう。

繰り返しますが、私はもちろん、それらと「殺人」とではまったく次元が違うことは理解しています。しかし、「『殺人』ほど影響力が低いから気にしなくていい」という主張もまた正しくないように感じられるのです。榛村大和はあまりに極端ですが、「自身の快楽が、他者の迷惑になる」という意味で「榛村大和的に振る舞ってしまっている人」は結構いるのではないかとも思っています。

一応、私のスタンスについても触れておきましょう。私は、どんな理由があるとしても、「法を犯したのであれば処罰されるべき」だと考えています。仮に、「明らかに法律がおかしい」と感じられる状況であったとしても、その法律が民主的なプロセスに則って成立しているのであれば、その法によって裁かれることを甘受しなければならないというわけです。なので、「殺人」を犯した榛村大和は、弁明の余地なく裁きを受けるべきだと思っています。

ただ、そういう現実的な話は一旦忘れて、榛村大和を「『生きてる実感』を得るために真っ直ぐ行動している人」と捉えてみましょう。「『生きてる実感』を得るための行為」は、「SNS」「本」「映画」「ギャンブル」「恋愛」「スポーツ」「アウトドア」など人によって様々でしょうが、榛村大和もそういう人たちと同じように、「『生きてる実感』を得るために真っ直ぐ行動している人」だと考えてみるのです。

この場合、それが「殺人」であるという事実は、あまりにも辛い現実ではないでしょうか? 例えば、「旅行」や「フェス」を生きがいにしていた人にとって、コロナ禍は相当苦しい時期だろうと思うのですが、榛村大和を「そういう苦しさの中にいる人間」と捉えてみることも出来るのではないかと私は思っているのです。

私たちはたまたま幸運なことに、「『生きてる実感』を得るための行為」が「殺人」ではありません。榛村大和という存在を知ると、それはとても素敵なことだと感じられるのではないでしょうか。私は本当に、「それ無しでは生きていけないと感じられるもの」が、社会通念に反するようなものでなくて良かったと思っています。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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