【考察】映画『うみべの女の子』に打ちのめされる。「関係性の名前」を手放し、”裸”で対峙する勇敢さ
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『うみべの女の子』が描き出す人間関係が素晴らしい。「恋人」でも「友達」でもないまま相手に深入りできる羨ましさ
『うみべの女の子』の映画、素晴らしかったです。元々、浅野いにおの原作コミックを読んでいて、「とんでもない作品だ」と感じてはいました。その世界観を映画で見事に描き出していると言っていいでしょう。
原作を読んだのは大分前なので正確には覚えていませんが、原作と映画は大体同じような内容・展開のはずです。そこでこの記事では、基本的に映画の感想を書くことにします。「中学生がセックスを起点に関係性を深めていく」という、「テーマ」としても「映画化する」という意味でも非常にハードルの高い作品は、どうしても「中学生のセックス」という部分に目が行きがちですが、私は、人間関係のより深い部分に触れるような感覚を与えてくれる作品だと感じました。
「名前が付く関係性」がどうにも苦手
ここ何年か、数ヶ月に1度電話で4時間ぐらい話すようになった女友達がいます。以前地方に住んでいた時に知り合った人です。今はお互いかなり距離の離れた場所に住んでいるので、直接会う機会はありません。彼女は10歳ぐらい年下で、共通の趣味があるわけではなく、電話する以外の時にはやり取りはほとんどない、みたいな関係です。
そんな女友達と話している時に、「犀川さんと話すのは、健康のために良いですね」と言われたことがあります。
これは、「お互い日常生活の中で話の合う人がいないので、話したいと思うことが身体の内側に溜まって不健康になる。それを喋ってすっきりさせましょう」という意味です。私自身の感覚としてももの凄くピッタリの言葉で、「確かにこの会話は『健康のため』だなぁ」と感じています。ある意味でそれは「点滴」のようなものと言えるでしょう。
この女友達の話を紹介したのは、「彼女との関係性には『特別な名前』がつかない」と感じているからです。もちろん「恋人」ではありませんし、性別も年齢も趣味もまったく異なるので「友達」という言い方も上手くハマらない気がしています。もちろん、少なくとも私の方は彼女に対して「人間的な興味」を持っているので、広く括れば「好き」という感情になりますが、それ以上に、「あー、ちょっと点滴打ちたい」というのに近い欲求の方が強いという感じです。
そして私は、こんな風に「関係性を上手く言葉に出来ない人間関係」に惹かれます。というか、「分かりやすい名前が付く人間関係」は苦手で、出来れば遠ざけておきたいと考えてしまうのです。
「名前が付く関係性」に対してはどうしても、「『関係性の名前』の方が強くなってしまう」という感覚が私の中にはあります。世の中には、「彼女がいるのに女と2人で飲みに行くなんてサイテー」「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」「先輩の命令は絶対」のような、「関係性に名前が存在するが故の制約」が当たり前のように存在するでしょう。私はどんな相手とも、「私とその人」という個人の関わりをしたいと思っているのですが、関係性に名前が付いてしまうと、どうしても「その関係性に相応しい言動」しか許容されない気がしてしまいます。
そういう状況に疲れを感じることが多く、私は「名前が付く関係性」を諦めてしまいがちです。「家族」に対する親密さを感じることもなく、「恋人」を作りたいという気持ちもなく、「上下関係」みたいなものからは一刻も早く逃げ出したいと考えてしまいます。
私のこの感覚は少数派だとは思っていますが、周りの人からも聞くことがあるので、共感してくれる人もいるはずです。あるいはこの記事を読んで、「今までそんなこと考えたこともなかったけれど、『名前が付く関係性』が苦手だから人間関係で上手くやれないのか」と気づいたなんていう方もいるかもしれません。
ただやはり世間的には、「名前が付く関係性」を求める気持ちの方が強いだろうと思います。「名前が付く関係性」から意識的に離れてみた私なりに、どうして「名前が付くこと」を求めてしまうのか改めて考えてみました。
私の予想に過ぎませんが、「『関係性』は『善悪の判断基準』だから」ではないかと思います。
「誰かとセックスをすること」は、行為自体は悪くはありません。しかし、「恋人」のいる人が別の異性とセックスすると、それは「悪いこと」と認定されてしまうのです。これは、関係性に名前が付いているからだと言えるでしょう。「恋人」という関係性があるかないかで、「異性とのセックス」の良し悪しの判断が変わるというわけです。
このように、「関係性に名前が付いていること」はそのまま、「何が良くて何が悪いかの『判断基準』」になることを意味します。そして、「何かあった時に『良い』『悪い』が評価できること」にメリットや安心感を感じる人が多い、ということなのでしょう。
「相手が間違っている」とか「自分は正しい」と主張するためには、どうしても「判断基準」が必要になります。「判断基準」がないまま良い悪いの議論をしても不毛でしかありません。そして誰もが、「自分は正しい言動をしている」という確証がほしくて、「名前が付く関係性」を求めてしまうのではないかと私は考えています。
そしてそうだとするなら、やっぱり私は、そのような「判断基準」のある関係性はめんどくさいと感じてしまうのです。
磯辺と小梅の関係は、「セックス」から始まっていく
物語は、こんな風に始まります。1年生の時に同級生の磯辺恵介に告白された佐藤小梅は、2年生になってから唐突に「私とセックスしたい?」と磯辺に持ちかけました。小梅が自分のことを好きになってくれたわけではないと分かっていた磯辺は、「それならセックスしたってしょうがない」と思います。しかしその後、家や学校でひたすらセックスをし続ける生活が始まるというわけです。
冒頭、海辺で「私とセックスしたい?」というやり取りを交わして以降しばらくは、基本的にずっとセックスをしています。しかもその行為はお互いにとって、「セックスのためのセックス」みたいなものであると伝え合うのです。
2人共とにかく、「そこに性器があるから」ぐらいのテンションの低さで、ひたすらにセックスを繰り返します。磯辺は小梅のことが好きだったけれど、今はそういう感情は排して「セックスの相手」としか見ていません。そして小梅の方は、磯辺のことはなんとも思っていないけどとりあえずセックスをしたい、というスタンスで関わっていくのです。
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