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【おすすめ】「天才」を描くのは難しい。そんな無謀な挑戦を成し遂げた天才・野崎まどの『know』はヤバい

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天才・野崎まどが全力で「天才」を描く凄まじい小説。やっぱり野崎まどは小説家として異次元だ

野崎まどの小説は何作か読んだことがあるのですが、本当に凄まじい作家です。着想・展開・深さ・教養など、あらゆる点で読者の度肝を抜く作品を多く執筆しており、読む度にその世界観に驚かされます。

小説で「天才」を描くことはとても難しい

『know』という小説の凄さも多岐にわたるのですが、やはりなんと言っても「『天才』の描き方」が抜群だと感じました。

普通に考えると、物語の中で「天才」を描くのは非常に難しいと思います。当たり前ですが、「私たちには理解が及ばない存在」だからこそ「天才」と呼ばれるのであって、つまり「天才」は「理解できないキャラクター」として描かれる必要があるからです。

しかしそれでは、物語としては成り立たないでしょう。

つまり、「理解できない」と「理解できる」を絶妙なバランスで成り立たせなければ、読者が「天才」だと感じる人物像にはなかなかたどり着けないことになるのです。

例えば私たちは、藤井聡太や羽生善治などの棋士を「天才」だと感じるでしょう。将棋のルールをそこまで詳しく知らないとしても、「藤井聡太は天才だ」と感じるはずです。そう感じられる理由は、「将棋には麻雀のような運の要素はなく、基本的には実力が高い者が勝つ」「将棋は長い歴史を持つ競技であり、その中で歴史を塗り替えるような記録を出している」「他の棋士と比べてずば抜けて若い時点から活躍している」などの情報を理解しているからだと思います。本当であれば、将棋のルールを理解し、ある局面で藤井聡太が指した1手に対して「これは凄い!」とその天才性を感じられるようになるのが理想ですが、なかなかそうはいきません。だから、様々な情報を組み合わせることで、「藤井聡太は天才だ」と実感するしかないというわけです。

あるいは、例えば私は「プログラマーの天才性」を理解できないと思います。プログラミングの知識を持っている人であれば、コードを見ただけでその凄さが分かるでしょう。では、プログラミングの知識のない人間は、どうやって「プログラマーの天才性」を理解すればいいでしょうか? 私は恐らく、誰かから「あの人は天才プログラマーだよ」と紹介されたとしても、私自身の実感として「ホントにこの人は天才だ!」という地点にたどり着けることは恐らくないと思います。

このように、私は「天才である」という実感は「理解できなさ」が中核にあると考えています。そして、「その『理解出来なさ』を乗り越えて『天才だ』と感じる」ためには、「その人の『天才性』そのものは理解できないが、その人が『天才』であることは理解できる」という状況に達しなければならないのです。

これを物語の中で実現するのは相当の困難が伴うでしょう。

一般的に物語の中で描かれる「天才」は、「マジシャン」のような存在に近いと私は考えています。つまり、「観客(読者)に伝わるようにあらかじめ調整された『凄さ』」を見て、私たちは「天才だ」と感じているに過ぎません。

本物の「天才」は、その「凄さ」を分かりやすく提示してはくれないはです。だからこそ「理解できない」のであり、そこにこそリアリティがあると私は感じます。そして物語を成立させる「天才」を描くためには、その上でさらに「このひとは天才だ」と思わせる何かが必要になるのです。

そんな矛盾に満ちた「物語で『天才』を描く」という難題を、いとも簡単に成し遂げているように感じられる、凄まじい小説です。

本の内容紹介

物語には、2人の異質な天才が登場する。1人は、「情報」と呼ばれるものの存在価値や意味合いをまるっきり一変させてしまった、世界を変える発明をした男。そしてもう1人は、そんな天才が生み出した”創造物”である。

普通なら、彼らの「天才性」を垣間見ることは不可能だ。天才であればあるほど、凡人と同じ速度で進む必然性がない。凡人を置き去りにして、どこまでも突っ走っていくだろう。しかしこの物語では、彼らの「天才性」が読者にも実感できる「必然性」が用意されている。天才たちの目的が、「凡人を啓蒙すること」にあると設定されているのだ。彼らは自らの好奇心・探究心に従って未踏の地に足を踏み入れていくわけだが、同時に、その足跡を凡人にも辿れるようにしておくことで、「天才が見ている光景」を理解させようとするのである。だから読者は、2人の「天才性」の一端を知ることができるというわけだ。

そんな天才たちの物語は、ある発明から始まった。

京都大学の天才研究者である道終・常イチは、「電子葉」という世界を一変させる発明を生み出す。電子葉は、脳に埋め込むことで脳外部から入ってくる膨大な情報を処理する機能を持つ素材であり、日本では2066年に全国民に電子葉移植が義務化された。

義務化に至った背景には、情報材と呼ばれる新素材の開発がある。情報材は、微細な情報素子を含む素材の総称であり、フェムトテクノロジーの結晶だ。情報材は、それ自体が「情報伝達のデバイス」として機能する。自律的に周辺の情報をモニタリングし、相互に交信を行っているのだ。この情報材があらゆる人工物に使用されるようになったことで、人類が処理しなければならない情報量は無限大に膨れ上がり、電子葉のような発明が切に求められていたのである。

電子葉を脳に埋め込んだ人類にとって、「知っている」という概念は「たった今調べた」と同義になった。世の中に存在する情報に瞬時にアクセスすることが可能となり、「知っていること」と「調べたこと」の差が無くなったのだ。

そんな、電子葉によって人類の能力が拡張された2081年が物語の舞台である。

主人公の御野・連レルは、国内の情報管理を一手に担う情報庁に勤める人物だ。この時代、世の中に存在する情報はクラス分けがなされており、権限の有無によってアクセスできる情報に制約が設けられている。彼は<クラス5>という特殊な情報権限を有しており、一般人が手にできる最上級の情報権限を、時に自身の趣味にも利用していた。

御野がこの世界の有り様に魅せられたのは中学生の頃。道終・常イチと出会ったのだ。

今の世の中を規定するソースコードは、20代で情報素子と情報材の基礎理論を作り上げ、40代で電子葉を実用化させた道終が書いている。そしてそのソースコードに魅せられた御野は、何百回となくそのコードを眺め続けた。そして、出会って1週間後に失踪し、今も行方が分からないままの天才研究者に思いを馳せている。

ある日、次長に呼ばれた御野が出向くと、そこにはアルコーン社のCEOが待っていた。情報通信事業の国内最大手企業であり、世界でも2番目の規模を誇る巨大企業だ。CEOは、データをほぼ完全に消去し、14年前に失踪したままの研究者を追っているという話を彼に聞かせる。御野はどうしてそんな話を自分にするのか分からない。人探しなら警察の仕事だろうと思ったからだ。

しかし、彼が道終・常イチを探していると知って驚愕する。そして、どこで調べたのか、失踪の1週間前に御野が道終と会っていた事実を調べ上げアプローチしてきたというわけだ。

しかし、誰よりも再会を望んでいるのは御野にしても同じこと。何か手がかりがあるならとっくに追いかけていただろう。自分のところに来たところで、道終・常イチにたどり着く手がかりなどあるはずも……

本当に「無い」と言えるのだろうか?

本の感想

物語はとても精緻に組み上げられていて、「何を書いてもネタバレになってしまう」というような作品です。あと1点書けることがあるとすれば、「1人の天才少女が登場する」ぐらいでしょうか。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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