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【論争】サイモン・シンが宇宙を語る。古代ギリシャからビッグバンモデルの誕生までの歴史を網羅:『宇宙創成』

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数十世紀に及ぶ「宇宙の捉えられ方」を描き出す一冊

これほどのスケールで「宇宙論」を描く作品は読んだことがない

本書は「宇宙」をテーマにした作品だ。そして「宇宙」というのは、あまりにも広すぎるテーマである。

例えば本書では最終的に、「ビッグバン」という現在正しいと信じられている「宇宙の始まり」の理論に行き着く。そしてこの「ビッグバン」だけを取り上げても、様々な科学者による様々な議論があり、驚くような発見があり、反対派が多かったところから少しずつ支持を集めていったというなかなかにドラマティックな話だ。

そして古代から人類は、「宇宙」を様々な形で捉えてきた。古くは「亀の上に地球が載っている」と思われていたこともある。「それでも地球は回っている」というガリレオの言葉もある。「宇宙には始まりも終わりもない、永遠に変わらない存在だ」と考えられていた時代もある。

このように、どの時代を切り取るかによって「宇宙の捉えられ方」はまったく変わってくるし、人類が思い描いてきた「宇宙像」は多岐に渡る。普通は、それぞれの時代ごとの宇宙観だけを切り取って1冊にまとめるか、あるいは全体を網羅するにしても、雑学本のような個々の記述が薄い内容になってしまうだろう。

しかし本書でサイモン・シンは、古代から現代に至るまでの人類の宇宙観の変遷を可能な限り濃密に描くという、かなりチャレンジングなことを行っている。そしてその点が、本書の凄まじさだと思う。

「人類が宇宙をどんな風に捉えてきたのか」について、基本となる知識をあまり持っていないという方は、まずこの1冊を読んでみるといいだろう。本書の記述だけでも十分満足できるくらいに深く描かれているし、さらに関心を深めたい領域が見つかれば、それに特化した作品を読めばいい。

本書は、科学書でもあり歴史書でもあり、そして「宇宙」という鏡に映し出された人類の物語でもあるというわけだ。

「宇宙の始まりは科学の領域ではない」と考えられていた

現在科学者は、「宇宙がどう始まったのか」を科学の力で解き明かせると考えている。実際に、量子力学の知見を駆使して、「まったく何もないところから、こんな風に宇宙が始まったのだろう」という仮説と、その仮説に至るまでの科学者の奮闘を読んだことがあり、研究の最前線に驚かされた。

しかしかつて科学者は、「宇宙の始まりは科学の領域ではない」と考えていた。恐らく中には、キリスト教の創世記など宗教的なものと結びつけることで「科学の領域ではない」と考える科学者もいただろう(特に、時代を遡れば遡るほどそういう科学者は増えるはずだ)。しかし、そういう宗教的なものと結びつけなくとも、「科学では辿り着けない」と感じてしまう気持ちは、なんとなく理解できる気がする。

一方で科学の歴史というのは、不可能を覆してきた歴史でもある。

例えば、「宇宙」について知ろうとする過程で、科学者がこんな風に考えていた時代もある。

人間は、星の成分やその性質を知ることはできない

これも、普通に考えれば「そうだよな」と感じてしまう事柄だろう。星や天体について理解しようと思えば、実際にそこまで行って物質を採取し観察しなければならない、と考えるのは当たり前だと思う。しかし我々は、「ブラックホール」という、そもそも近くまでたどり着くことさえ不可能な天体についてさえ、それがどんなものであるのか理解している。人類は、「光」について研究を積み重ねることで、自分ではたどり着けない領域の事柄でも理解できるようになったのだ。

さらに、こんな風に考えられていた時代もある。地上と天上(要するに「宇宙」のこと)は、違う物理法則で成り立っているのだ、と。地上には地上の、天上には天上のルールがあり、我々は天上のルールを知ることができないのだ、と考えられている時代さえあったのだ。

しかしその考えは、ニュートンが打ち砕いた。「万有引力」という考え方を提示し、地上と天上の物理法則が同じであることを示して見せたのだ。

このように、科学は常に不可能を乗り越えてきた。だから「宇宙の始まり」についても、現在の仮説が「正しい」と証明される日が来るだろうと思っている。

しかしそうだとしても、「宇宙が始まる前」を科学で扱うのはやはり困難かもしれない、とも考えられている。

たとえ特異点を物理学的に扱えたとしても、「ビッグバン以前はどうなっていたのか?」という問題は、論理的に矛盾しているがゆえに答えることは不可能だと考える宇宙論研究者は多い。なにしろビッグバン・モデルによれば、ビッグバンのときには物質と放射が生じただけでなく、空間と時間も生じたはずだからだ。もしも時間がビッグバンで創造されたのなら、ビッグバン以前には時間は存在しなかったことになり、「ビッグバン以前」という言葉は意味を失う。これを理解するために、「北」という言葉を考えてみよう。北という言葉は、「ロンドンの北はどうなっているか?」とか、「エディンバラの北はどうなっているか?」という問いには使えるが、「北極の北はどうなっているか?」という文脈では意味を失うのである。

確かに、「ビッグバン」によって時間(と空間)が生まれたのだから、「ビッグバン以前はどうなっていたのか?」という問いは論理矛盾だろう。「ビッグバン以前」には時間(も空間)も存在しないのだから。しかし、もしかしたら未来の科学は、この論理矛盾さえも乗り越えて、何か驚くべき仮説を生み出してくれるのではないか、と期待している。

古代から人々は「宇宙」をどう捉えてきたのか

本書では、人類の宇宙観の変遷が時系列で捉えられている。古代からの宇宙の捉えられ方がぎゅっとまとまっており、時代ごとの考え方に触れることができる。また、「古代の人々が地球の大きさをどう推定したか」や「ケプラーの三原則」など、科学的な側面からも宇宙に対してどのようなアプローチがなされてきたのかも描かれる。

本書を読むと、古代ギリシャの時代には既に、「地球が太陽の周りを回っている」という、現在と同様の認識をしていた哲学者がいたことが分かる。普通に宇宙を見ているだけでは、「自分(地球)は止まっていて、天体が動いている」と考えてしまうのが当たり前だと思うが、古代ギリシャ時代に「地球の方が動いているのだ」と考えていた人物が既にいたというのは凄いことだと思う。

しかしその後、キリスト教の力が大きくなり、科学も飲み込まれていく。ガリレオが「それでも地球は回っている」と言ったとするエピソードはあまりに有名だが、キリスト教は、「自分たちが宇宙の中心である」という信仰を貫くために、「地球が太陽の周りを回っている」という考え方を認めなかった。そして、いわゆる「天動説」と呼ばれる考え方が主流になっていく。

ただ、この天動説の広がりの背景には、当時まだ高度な観測技術が存在しなかったことも大きく影響しているだろう。そしてガリレオは、自ら望遠鏡を自作し、宇宙を観測した結果を元に、「地球が太陽の周りを回っている」という「地動説」を主張することになるのだが、その時には既に、「天動説」の力が強くなりすぎていて、ガリレオは最終的に自説を曲げざるを得なかった、というわけだ。

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