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【称賛?】日本社会は終わっているのか?日本在住20年以上のフランス人が本国との比較で日本を評価:『理不尽な国ニッポン』

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フランスより日本の方が良い国?

本書の主張と著者略歴

まず、本書の結論と言えるような文章から引用してみよう。

しかし、一部の改善は考慮するとしても、これらの統計が示しているのは、日本人もフランス人と同じほど気分が落ち込み、さらには絶望し、ときに暴力に出るということだ。それでも、共同体、社会、国家としては、フランスより団結しているように見える。これは事実なのだろうか、そしてもし事実だとしたら、なぜなのだろう?

なんとなくのイメージだが、日本に住んでいる日本人からすると、フランスの方が国家として「レベルが高い」感じがしないだろうか? 「フランス革命」が起こった国であり、人権意識も高く、民主主義国家として日本よりもずっと洗練されているのではないか? と。

しかし、日本在住20年以上のフランス人である著者は、フランスと日本を徹底的に比較した結果、欧米の理屈からすると理解できない部分もあるが、しかしそれらもひっくるめた上で、日本というのは結果的に上手くやっている国なのではないか、と主張する。

その背景には、

しかし私たち(※フランス人)は自由をふりかざすあまり、国家の権力を低下させているのではないだろうか?

という感覚があるようだ。この辺りについてはおいおい触れていく。

さて、少し長くなるが、本書の著者がどんな人物であるのかが、本書巻末の訳者あとがきにまとまっているので引用しようと思う。

著者のジャン=マリ・ブイス氏は、1950年パリ生まれ。歴史家で専門は現代日本。フランスのグランゼコールを代表する名門パリ高等師範学校(ENS)出身。1975年、リセ・フランコ・ジャポネ・ド・東京(現在の東京国際フランス学園)に赴任する(1979年まで)ために初来日。その後、東京大学をはじめとする日本の著名大学で教鞭をとり、現代日本の政治や経済政策についての書物を数多く発表する。1982年から1984年まで、東京日仏学院(現在のアンティテュ・フランセ東京)付き研究員をつとめ、ついで九州日仏学館(げんざいのアンティテュ・フランセ九州)の館長となる(1984年から1989年)。
1990年、やはりグランゼコールの名門、パリ政治学院研究科長に就任するためにフランスに帰国。日本とフランスの大学の橋渡し役として日仏を往復するほか、各種の大学で教鞭をとる。2013年、パリ政治学院日本代表に就任して再来日、現在に至っている。日本在住歴は20年以上、その間、日本の政治、経済、社会、外交から漫画、ポップカルチャーまでの幅広い研究に加え、本書でも触れられているように、再来日後は、日本女性の妻と子どもを通して女性問題や子育て問題など、さらに研究のフィールドワークを広げている。

本書を読めば分かるが、著者はかなり日本の生活の中に入り込んでいる。幼稚園ではかなり煩雑な作業が要求されて大変だとか、地域の祭りで神輿をかついだことがあるとか、かなり様々な経験をしている。「ヤクザに鑑定書を書くよう頼まれたことがある」という話も、なんというか尋常ではない。

もちろん、日本人が読むと「その記述は的外れだ」と感じる箇所ももちろんある。日本の編集者と共に日本人向けに作った本であればそういう違和感は制作過程で無くなったでしょう。しかし本書は元々、フランス人向けに書かれた本の翻訳なので、やはりそういう違和感は残ってしまう。

しかし、それらが全然些末な問題だと感じられるほど、全体としては、日本に関する鋭い観察と指摘に溢れた内容だと思う。

日本では、「善悪を決めるのは社会」

本書を読んで、最も納得させられたのがこの、「善悪を決めるのは社会」という主張だ。そして、日本はこのような社会通念が存在するからこそ、モヤモヤする部分もありながらも、全体としては上手くいくのだ、と書く。

著者はまず、フランスと日本における「自由」の違いについて触れる。フランスの人権宣言では、

自由は「消滅することのない自然な権利」(第二条)で、「他人を害しないすべてのことをなしうる」(第四条)と、きわめて広く定義されている。法的に禁止されているのは「社会に有害な行為のみ」(第五条)である。

と定められている。つまり、「社会に有害な行為」以外だったら何をしてもいい、というのが、フランスにおける自由である。

本書には、不倫した山尾志桜里議員や乙武洋匡、覚醒剤所持のASKA、暴言の豊田真由子議員など日本のニュースを騒がせた人たちが取り上げられる。そしてその後で、

これらの報道内容は何一つ、フランスなら罰せられないだろう。

と書いている。不倫も覚醒剤も暴言も、「社会に有害」とは判定されないから、個人の自由、ということなのだろう。

本書にはフランスの例として、

未成年の買春でスキャンダルを起こしたフランス・テレビ界の大物司会者(ジャン=マルク・モランディーニ)は、不起訴になったのを幸い、テレビ局社長の後押しを受け、その後も堂々と自分の看板番組に出演している

というエピソードが紹介されている。なるほど私も、「不倫」はどうぞ勝手にやってくださいと思っているが、「未成年の買春」にはそうは思えない。フランス人の「自由」の概念は、思ったよりも広い。本書には、こんな記述さえある。

フランスでは、このようなことが社会の団結に貢献することはない。なぜなら政治家の感情的、性的な異常行為は、伝統的に職務につきものと見なされてきたからである

凄まじい発言である。それでいいのだろうか?

一方、日本ではどうか。

日本では、自由は自然な権利でも、絶対的な価値でもない。憲法では全体的な定義は何も示されていないのだ。定義としてもっとも適当と思われるのは「避けたほうがよい混乱を社会に引き起こさないことをする権利」だろうか。そのため、法律を破らない行為で、とくに誰かに有害ではなくても、通常の社会的規範から見た許容度によって、厳しく条件づけられる可能性が生じることになる

ワイドショーや週刊誌で不倫が取り上げられることに対して、私のようにうんざりした気持ちを抱く日本人もきっと多いと思う。そんなの個人の勝手だろ、と感じることに対してまで、社会全体で非難する風潮はおかしいと思う。まさにこれは、日本の社会では、著者が指摘する「避けたほうがよい混乱を社会に引き起こさない」というスタンスが重視されている、と判断せざるを得ないだろう。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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