【魅惑】マツコも絶賛の“日本人初のパリコレトップモデル”山口小夜子のメイクの凄さや素顔を描く映画:『氷の花火 山口小夜子』(松本貴子監督)
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日本人初のパリコレトップモデル山口小夜子は何が凄かったのか?映画『氷の花火 山口小夜子』が迫るその素顔
これほどの人物の名前を、どうして今あまり耳にすることがないのだろうか?
私が「山口小夜子」という名前を初めて聞いたのは恐らく、マツコ・デラックスの発言だったように思う。そしてたぶん、それが唯一だ。もう終わってしまった『マツコ会議』という番組の中で、マツコ・デラックスが度々彼女の名前に言及していた記憶がある。そしてそのマツコ・デラックスの語りぶりからだけでも、「凄い人がいたんだなぁ」と感じさせられたのだ。
なにせ、日本人初のパリコレトップモデルである。1960年代に活躍した人だ。彼女以前にも「日本人パリコレモデル」は存在したようだが、山口小夜子の存在感は圧倒的だったのだと思う。その後のモデルたちが辿る道を切り開いた人物だと言っていいだろう。
そしてだからこそ私は、山口小夜子の名前をあまり耳にすることがない現状に驚かされてしまう。私は先程も書いた通り、本作『氷の花火 山口小夜子』を観る以前には、マツコ・デラックスが語っていたことぐらいしか彼女について知らなかった。しかし映画を観て、その凄さが多少は実感できたつもりだ。そしてだからこそ、「今でも、世間で広く名前が知られる人物であってもおかしくない」という感覚を抱かされたのである。
もちろん私が知らないだけで、山口小夜子の名前は今もあちこちで飛び交っているのかもしれない。ただ、「私のようなファッションに無知な人間」にも広く知られていてもおかしくないようにも思えるのだ。これは単に、私の過大評価に過ぎないのだろうか? 確かに、本作によれば「晩年は『アングラな芸術活動』をメインに行っていた」そうで、そのため「メディアが触れにくい存在」になってしまっていた可能性もあるのかもしれない。
一方、本作に出演しているフォトグラファーの下村一喜は、ある時期の山口小夜子について、「ファッション界は彼女を蔑ろにしていたように思う」みたいな発言をしていた。彼がどのような状況を指してそんな発言をしたのかはっきりとは分からなかったが、「その偉大な功績とは裏腹に、『もう終わった人』みたいな扱いを受けていた」みたいなことなのかもしれない。ちなみにこの下村一喜は『マツコ会議』にも出演していたし、その時にもマツコ・デラックスと山口小夜子の話をしていた記憶がある。
いずれにしても、その圧倒的な存在感により一時代を築いたことは確かだろうし、仮に世間に広く知られていないとしても、彼女のDNAのようなものは、今も多くのモデルに引き継がれているのではないかと思う。
本作の設定と、山口小夜子の凄まじい評価
本作の監督である松本貴子は、駆け出しディレクターの頃に山口小夜子の取材を担当したことがあるのだそうだ。そしてそれがきっかけで、個人的にも関わりを持つようになっていった。本作は、そんな松本貴子が、2007年に亡くなってから7年間未開封だった山口小夜子の遺品を開ける場面から始まる。遺品は、山口小夜子を大切に思う人たちによって大事に管理されていたのだが、松本貴子が無理を承知で「遺品に深呼吸させてあげたいんです」とお願いし実現したのだという。
遺品の開封は、山口小夜子の母校・杉野学園で、彼女の後輩に当たる生徒たちの手を借りて行われた。そしてそこから、個々の遺品にゆかりのある人物を訪ねインタビューを行うことで、「様々な人の記憶の中にある『山口小夜子』」を引っ張り出そうとするのが本作である。
私がとても驚かされたのは、山口小夜子がかなり若くして世界に認められたということだ。覚えている限りでは、確か19歳の時にモデル事務所に所属、その後ザンドラ・ローズというデザイナーに認められ彼女のショーに出るようになった。そして1973年、23歳で資生堂と専属契約を結んだ時にはもう、世界のトップモデルになっていたというのだ。
当時、日本人はおろかアジア人のモデルが欧米のランウェイを歩くことさえほとんどなかった時代である。当然、アジア人に対する差別的な見方もあったはずだ。そんな中、モデルを始めてたった数年で世界のトップに立っていたというのである。
作中では、山本寛斎が当時のことについて語っていた。山口小夜子はパリコレに出れば、15ぐらいのオファーが集まったそうだ。これは当時としては最高レベルのオファー数だったという。さらに、当時コレクションの最後はウエディングドレスと決まっていたのだが、ほとんどのコレクションで山口小夜子がウエディングドレスを着たのだそうだ。一度のショーで30~40名のモデルが出演するのだが、当然、ウエディングドレスを着られるのは1人だけ。その栄誉を、あらゆるコレクションで山口小夜子がかっさらっていったというのである。「アジア人モデル」としてではなく、「モデル」として凄まじく評価されていたというわけだ。1973年には、ニューズウィーク誌が「世界の4人のトップモデル」に山口小夜子を選出している。
とにかく、凄まじい評価だったというわけだ。
山口小夜子の「セルフプロデュース能力」
山口小夜子と言えば恐らく、多くの人が「切れ長の目」をイメージするのではないかと思う。ネットで検索してみても、切れ長の目が印象的な姿ばかりが出てくる。しかし、作中で多くの人が話していて印象的だったのだが、「山口小夜子の目は、大きくて丸かった」というのだ。先述した下村一喜は、後に憧れの山口小夜子を撮影する機会に恵まれたそうだが、彼はこんな風に語っていた。
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