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【記憶】映画『退屈な日々にさようならを』は「今泉力哉っぽさ」とは異なる魅力に溢れた初期作品だ
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今泉力哉監督映画『退屈な日々にさようならを』は、複雑な時系列の中で奇妙な群像劇が展開する実に魅力的な物語だった
初めて「オールナイト上映」に参加してみた
「今泉力哉作品のオールナイト上映イベントが開かれる」という情報をなんとなく目にして、私は初めて「オールナイト上映」というものに参加してみることにしました。現在41歳の私は、「朝まで起きていられるだろうか?」という点が結構不安でしたが、22:30に始まり翌朝6:30に終わったイベント中、無事ずっと起きていられたので、まずはその点が良かったです。
今回上映されたのは、『退屈な日々にさようならを』『街の上で』『サッドティー』の3作です。『街の上で』は観たことがあったので、2作が初見という感じでした。イベントの流れは、冒頭で今泉力哉から挨拶があり、後は各回終了後に「トークイベント&休憩兼サイン会」が行われるという感じです。ただ、今泉力哉から最初に「今回は事情があっていつもと違う」と断りがありました。なんと突如、4:30のタクシーに乗って何かの現場に急行せざるを得ない状況になってしまったのだそうです。そのため、普段であれば6:30の終了後も今泉力哉は残ってお客さんと喋ったりしているそうなのですが、「今回はそれが出来ません」という話でした。いやホント、お疲れ様です。
さて、映画の話をする前に、上映が始まる前の「ちょっとした驚き」について触れておきましょう。
上映が始まる直前まで、私の前の席は空いたままでした。もちろん、普段なら別になんてことはない状況です。ただ、今回私は「あれ?」と思っていました。というのも、テアトル新宿で行われたこのオールナイト上映は、約1週間前の19:00からチケットの販売が開始されたのですが、私が19:04頃にサイトを見た時点でほぼ満席状態だったのです。そんなわけで、「空席なんかあるはずないよな」と思っていました。もちろん、電車が遅れたとか、予定があって来れなくなったみたいな想定をする方が自然でしょう。ただ私には、もう1つ別の可能性が浮かんでいました。
さて、この少し前、『情熱大陸』で今泉力哉が特集されていたのですが、その中でも、今泉力哉が参加する上映会(オールナイトだったかは覚えていない)の様子が映し出されていました。その上映会の合間でも今泉力哉が登壇していたのですが、その際、彼が客席から壇上に上がっていたのです。そんな様子を見ていたので、「上映会の際には、今泉力哉は客席に座っているんだろう」と思っていました。
となれば、「上映開始直前まで空席のままになっている前の席に、今泉力哉が座るなんてこともあるんじゃないか?」という発想になるのも自然でしょう。
そしてなんと驚くべきことに、私の予想は当たっていて、冒頭の挨拶を終えた今泉力哉が、私の前の席に座ったのです。これにはなかなか驚かされました。まあ、それだけの話なんですけど。
それでは、本作『退屈な日々にさようならを』の話を進めていこうと思います。
時系列が複雑に入れ替えられた物語なのに、かなり分かりやすく描かれている点に驚かされた
映画『退屈な日々にさようならを』を観て、私は少し驚かされました。それは、私が思う「今泉力哉っぽさ」とは、少し違っていたからです。
私はこれまで、『窓辺にて』『ちひろさん』『街の上で』『アンダーカレント』『からかい上手の高木さん』の順に今泉力哉作品を観てきたのですが、そんな私は彼の映画を、「日常生活や、日常から少しだけ浮き上がった世界での恋愛を丁寧に掬い取る作品」と捉えています。ただ、本作『退屈な日々にさようならを』はそういうスタイルとは結構異なっていました。もちろん「恋愛」は中核に存在するわけですが、物語のテイストが全然今泉力哉っぽくなかったのです。
本作は全体的に、「クリストファー・ノーラン的な時系列グチャグチャの物語」と言っていいでしょう。さらに、様々な人物を描き出す群像劇が非常に奇妙な形で収斂していく展開で、私はとても好きでした。先に挙げたような今泉力哉作品は、どちらかというと「ストーリーらしいストーリーが存在しない」みたいなタイプが多くて、それはそれでももちろん好きなんですけど、「ストーリーをメインで打ち出していく作品」も面白いんだなと思えて良かったです。ちなみに合間のトークイベントの中で今泉力哉は、「初めて知った映画監督がタランティーノで、それもあって、『パルプ・フィクション』みたいな時系列グチャグチャの群像劇をいつかやりたいと思ってた」みたいなことを言っていました。
さて本作は、ざっくり「前半」「中間」「後半」の3ブロックに分けられると思います。そして、私が何よりも驚かされたのは「中間」でした。本作は、最後まで観ればもちろん全体の繋がりは分かりますが、リアルタイムの感覚で言うと、「『中間』を境に、全然違う物語が始まった」みたいな感じになります。しかも、その「中間」の物語があまりにも全体の中で浮いていて、「1つの作品としてこの要素をちゃんと処理出来るんだろうか?」とさえ感じさせられたのです。
しかし、そんなややこしそうな物語が、糸がするっと解けていくようにして絡まりがなくなっていき、ちゃんと繋がっていくのです。その構成がまず、とても見事だったなと思います。
トークイベントの中で今泉力哉は、「物語は凄く理解しにくいと思う」と話していました。その発言にはこんな背景があります。元々は色んなシーンに「◯年どこどこ」というように字幕で場所と時代を表記していたそうなのですが、最終的にそれを全部外すことにしたというのです。まあ確かに、時系列が入り組んだ作品に慣れていない人にはちょっとハードルは高めかもしれません。ただ個人的には、「これほど訳のわからん要素を詰め込んで、よくもまあ物語をちゃんと着地させたものだ」と感じました。本作はまず、そんなストーリーテリングが素晴らしかったと思います。
「非リアルな要素」が組み込まれているにも拘らず、全体の「リアルさ」が失われていないことにも驚かされた
そしてもう1つ驚かされたポイントが、「全体的にとてもリアルに展開されていたこと」です。
本作においてはとにかく、「中間」の物語が恐ろしく「非リアル」です。正直なところ、この「中間」の物語が始まった瞬間、「え? 違う映画に変わった?」みたいに感じました。「前半」「後半」はリアルなテイストなので、「中間」だけがもの凄く浮いているという感じです。
しかも本作では、「前半」と「後半」の物語も大きく違っていて、普通であれば繋がるはずがありません。ただ、「中間」の物語があることで、「前半」と「後半」がちゃんと物語として成立していると言えるでしょう。つまりこの「中間」の物語は、作品全体において必要不可欠なわけです。そんな必要不可欠な物語が「非リアル」なのだから、作品全体が「非リアル」に呑み込まれてしまってもおかしくないようにも思います。
しかし、本作は全然そんな風にはなっておらず、そのことにちょっと驚かされてしまいました。
実際のところ、「前半」の物語はさほどリアリティを必要としませんが、「後半」の物語はかなりリアリティが求められると思います。そしてだからこそ、「凄まじく非リアルな『中間』の物語」から繋がる「後半」の物語がちゃんとリアルな雰囲気をまとっているのが凄いなと感じました。
「展開の妙」や「人間関係の繋がり」みたいなものも実に面白い部分だったのですが、何よりも「普通には成立しないだろう世界を絶妙に成立させている雰囲気」が見事だったなと思います。
映画『退屈な日々にさようならを』の内容紹介
「前半」の物語は、映画監督を目指している梶原が、知り合いが撮った映画の上映会後の飲み会で酔い潰れるところから始まる。目を覚ました梶原はなんと、大勢の女性が本を読んでいる部屋にいた。その部屋には男が1人いて、梶原はその男から「昨日の話の続き」とやらを聞かされるのだが、梶原には全然記憶がない。ただ、どうやら彼は、その男からMV撮影の仕事を引き受けたようである。
梶原は、付き合っている彼女にも「映画以外の仕事はしない」と宣言するぐらい映画一筋だった。そのため、清田と名乗る男からの仕事も断るつもりでいたのだが、担当することになるかもしれないアーティストの写真を見て、「一度会ってみてから検討する」と考えを変える。
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