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【議論】安楽死のできない日本は「死ぬ権利」を奪っていると思う(合法化を希望している):『安楽死を遂げた日本人』

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「死ぬ権利」を人間は持っているだろうか?

安楽死と「死ぬ権利」

まず私は、人間には「死ぬ権利」があると考えている。そして、仮に人間に「死ぬ権利」があるならば、安楽死は合法化すべきだ、と思っている。これが基本的な私の主張だ。

「死ぬ権利」をもう少し具体的に定義しておくと、「自ら死を選択する権利」というようなイメージだ。

「人間に『死ぬ権利』がある」ならば「安楽死は合法化すべき」という理屈は、そこまで飛躍していないはずだ、という話をまずしよう。「病死」「事故死」「自殺」など、死に至る経緯は様々だが、「自殺」以外は自らの意思で死ぬわけではないので議論から除く。

「自殺」と「死ぬ権利」との関係には、2つ視点がある。1つは「自殺可能かどうか」だ。例えば、寝たきりの人は、自らの意思で「自殺」を選択することはほぼ不可能である。もう1つは、「綺麗に、お別れを言って自殺したい」という望みだ。別にやろうと思えば自らの意思で「自殺」できる。しかしその場合、死体が周囲を汚してしまうケースの方が多いだろう。また、きちんとお別れを言って死ぬことも叶わないだろう。

ここで私が言いたいことは、誰にでも「自殺」を選択する余地は概ねあるが、時と場合によっては「自殺できない/しにくい」という状況がある、ということだ。さてここで、人間には「死ぬ権利」があるとしよう。すると、「自殺できない/しにくい」人にも、「自ら死を選択する権利」が与えられるべきだ、ということになる。

というわけで、人間に「死ぬ権利」があるのなら、安楽死は合法化されるべきという考えはちゃんと理屈が通ると言えるだろう。だから問題になるのは、「人間には『死ぬ権利』があるのか?」である。

自然権としての「死ぬ権利」

この記事では、「人間には『死ぬ権利』がある」と結論づけたいわけではない。私が望んでいることは、安楽死について議論がもっと活発になされることであり、そのための前提を整理したいのだ。

「死ぬ権利」に限らず、人間が持つ「権利」について考える場合、「自然権」という視点は重要だろう。

「自然権」というのは、ざっくり言えば「神(God)が与えてくれた権利」ということだ。

社会には様々な法律があり、そこで様々な権利が規定される。例えば「知的財産権」によって、人間が生み出したアイデアや創作物は守られている。しかしこの「知的財産権」は、それを規定する法律が存在するから初めて権利として主張できるわけである。

しかし「自然権」は違う。「自然権」は、根拠となる法律など存在せず、「God」が与えてくれたものだから「God」にしか奪えない、というような類のものだ。具体的に言うと、「生存権」「自由権」「幸福追求権」「財産権」などが挙げられる。そして憲法というのは、「Godが与えてくれた権利を、念の為に記述しておきましょう」という趣旨で作られたものなのだ。

「死ぬ権利」というのがあるとして、それは法律によって規定されるものだ、と考える人はいないだろう。つまり考えるべきは、「『死ぬ権利』は『自然権』か否か」ということだ。

この問いについてきちんと議論し答えを導き出さなければ、安楽死を合法化することは不可能だろうと私は考えている。

実際、著者は本書でこう書いている。

ただし、安楽死を容認した国々には、それを認めるまでの歴史があることを知った。国民の長い議論と強い願いの末に制度化されたのだった。どう死ぬかを決めることは、どう生きるかを決めることにもつながる。死の自己決定は、人間の生まれ持っての権利の一つだというのが彼らの主張である。そうした考え自体は、欧米で二十五年超生活している私には、理解できた

安楽死が合法化された国では、「死の自己決定は、人間の生まれ持っての権利の一つ」という合意がなされた、ということだ。
安楽死は時々話題に上るが、イマイチ議論が深まっていかない理由は、「死ぬ権利」について考える機運が存在しないからだと感じる。

著者が関心を向ける先と、「功利主義/自由主義」の違い

本書の著者は、海外で安楽死を遂げた日本人の取材を行い、生や死について考える。しかし、本書を読む限り、著者の関心は「『死ぬ権利』があるか否か」には無さそうである。

本書の中で著者は、「その死が良かったかどうか」という話をよく持ち出す。安楽死であろうがなかろうが、「良い死」であれば良いし、「悪い死」であれば悪い、という立場のようだ。良い悪いというのは個人的な感覚であり、著者の主張は、家族との関わりやまだ残されているはずの未来にできることなどを総合的に考えて、ということになるのだが、私にはこの「良い死かどうか」という観点は無意味に感じられる。そんなことが判断できるわけがない。というか、自らの意思で望んで安楽死に向かうのだから、本人の視点からすれば「良い死」以外の何物でもないはずだ。

安楽死に限った話ではないが、良い・悪いを判断基準にする時、「功利主義」なのか「自由主義」なのかによって物事の捉え方が変わる。

両者の違いを、細部を取っ払って大雑把に説明すると、

「功利主義」=「自由よりも幸福が大事」=「仮に自由が制約されても、結果が幸福ならそれでいい」
「自由主義」=「幸福よりも自由が大事」=「仮に不幸になるとしても、自分で自由に選択・行動できるならそれでいい」

例えば、こんな人物について考えてみよう。安楽死をすると決め、団体に申し込みをしていたが、親族から猛反発を食らい、結局取り止めなければならなかった。しかしその後、少しお金持ちになり豊かに暮らした。

この場合、この人物が「功利主義者」であれば「良かった」と判断するだろう。しかし「自由主義者」なら「悪かった」と判断するかもしれない。

このように良い・悪いで何かを決めると、判断基準を統一することが難しくなるし、そうなれば、安楽死の合法化はますます遠のくだろう。

著者が思う「良い死」「悪い死」

著者は、死というのは本人だけでははく、残される側の問題でもある、という立場を取る。残される側というのは、主に「家族」のことを指している。著者は、

肉体的な苦しみを味わわずとも、精神的な痛みを抱えたまま死にゆくことは、理想の逝き方と言えるだろうか。それとも、肉体的には苦しくとも、精神的な喜びを持って自然な眠りに就くことのほうが理想の逝き方なのか。

という言い方で、自身の問題を提起する。安楽死であれなんであれ、家族に受け入れられる死なら「良い死」だし、受け入れられに死なら「悪い死」ということになるようだ。

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