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【感想】関東大震災前後を描く映画『福田村事件』(森達也)は、社会が孕む「思考停止」と「差別問題」を抉る(出演:井浦新、田中麗奈、永山瑛太、東出昌大、ピエール瀧、コムアイ)

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映画『福田村事件』(森達也監督)は、SNS時代だからこそ教訓にすべき「社会の残虐性」が凝縮された意欲作だ

公開直後に映画館で本作を観た際、満員だったことを覚えている。私が観た日はどうも、4回行われる上映のほぼすべてが満員だったようだ。私は普段、本作のような「実話を基にした作品」をよく観るのだが、そのような作品の場合は概ね、映画館の客入りは芳しくないことが多いような気がする。だから、何がどう話題になっているのかはよく分からないが、本作のような映画が適切に注目を集めていることは、とても良いことだと思う。

描かれているのは、本当にクソみたいな時代の話である。そして本作で映し出されるその「クソさ」は、そのまま現代にも通ずるはずだとも思う。特に、SNSが当たり前に存在する時代においては、映画『福田村事件』で描かれる状況以上の悲惨さが世界中のどこかで起こっているとさえ考えているのだ。

実話を基にした本作では、「根拠のない噂によって人が殺される」という、救いようのない事件が描かれる。そして私たちが生きる世界でも、自ら手を下すかどうかの違いだけで、「根拠のない噂によって人が亡くなる」という状況は常に存在しているはずだ。このように本作では、今まさに私たちが生きている世界の写し鏡のような状況が描かれていると言えるのである。

事実を基にした作品だが、恐らくそのほとんどは創作ではないかと思う

内容に触れる前にまず、この記事を書く上でのスタンスについて説明しておこう。それは、「本作がどこまで事実を基にしているのか」に関する私の解釈だ。

鑑賞後にウィキペディアをざっくり読んだのだが、「1923年の関東大震災直後に起こった『福田村事件』は長く表沙汰にならず、1980年頃からようやく調査が始まるようになった」みたいに書かれている。また本作のラストには、「9人の被害者遺族と6人の生存者は、その後もこの事件の詳細について語ることはなかった」と字幕が表記された。そう考えると、「実際に何が起こったのか」はあまりはっきり分かっていないと考えるのが自然だろう。

また、本作『福田村事件』では、「事件が起こった直後の現場に、千葉日日新聞の記者がいた」という設定になっている。ただ、この設定が事実なのかも、私には判断できない。しかし一方で、「現場に第三者的な立場の人間がいなかった」とした場合、事件はどのように表沙汰になっていったのだろうかという感じもする。となれば、新聞記者だったかどうかはともかく、事件そのものに関係していない第三者的な存在は誰かしらいたのかもしれないとも思う。

しかし仮にそうだとしても、分かることは「事件の際に何が起こったか」だけである。例えば、「事件以前の人間関係」についての記録など、恐らく存在していないだろう。そう考えると、本作で描かれる「事件が起こるまでの人間関係」や「事件に至るまでの経緯」は、ほぼ創作だと考えるのが自然ではないかと思う。

作中では、「戦没者の妻が不貞を働いていた」「朝鮮から戻ってきた夫婦が複雑な事情を抱えていた」などの描写がなされるのだが、仮に事件が起こった現場に新聞記者がいたとしても、そのような「関係者の状況」など知り得ないだろう。また、加害者側である福田村の住民は当然口を閉ざし続けるだろうし、被害者側である行商人の面々が仮に何か事件について話をしていたとしても、福田村の人間関係に詳しいはずがない。

そんなわけで私は、「1923年9月6日に起こった事件以前の描写は、そのほとんどが創作である」と捉えている。これが私の前提だ。

もちろん、「創作だからダメだ」などと言いたいわけではない。むしろ、「ドキュメンタリーとして再構成することが不可能な出来事を、フィクションを取り込みながら後世に伝えていく」のは非常に重要なことだと思っている。ただ一方で、観る側のスタンスとしてはやはり、「大部分はフィクションである」という視点を失ってはいけないだろうとも考えているというわけだ。

「関東大震災直後に朝鮮人と間違われて殺されてしまった」という状況の背景的事実

さて、先程から「福田村事件」と表記している出来事は、ざっくり書くと、「千葉に薬の行商にやってきた香川の部落民が、関東大震災直後に朝鮮人と間違われて殺された」という事件だ。作中では、「どうしてそのようなことが起こってしまったのか」という観点から、事件以前の人間関係に遡って物語が積み上げられていくわけだが、やはりその理解のためには触れておくべきことがある。それは、「朝鮮人と間違われて」という部分に関するものだ。

毎年、関東大震災が発生した9月1日前後になると、関東大震災の歴史や防災などの特集がテレビで組まれる。そういう番組の中でよく報じられるので知っている人も多いと思うが、関東大震災の際には、「朝鮮人が『火をつけている』『井戸に毒を入れた』」などの流言飛語が飛び交っていたそうだ。本作にはこのような時代背景が盛り込まれていることをまず理解しておくべきだろう。

作中でももちろんそうした描写がなされる。震災直後に、朝鮮人の動向を不安がるような人々の姿が描かれるのだ。そのため人々は、「自衛のため」に朝鮮人を見つけ次第殺していたのである。朝鮮人かどうかの判定には、「15円50銭」が使われていた。朝鮮人はどうも「がぎぐげご」の発音が出来ないとかで、怪しい者を見つける度に「15円50銭と言ってみろ」と声を掛け、発音出来ない者を殺していたのだ。

本作中ではさらに、「朝鮮人憎し」という土壌が生まれていった背景について、主に2つの視点から描写が積み重ねられていた。

1つは、「韓国併合以来、朝鮮人をいじめ抜いてきた」という、当時の日本人が抱いていた自覚である。朝鮮半島において日本人は、朝鮮人を騙して土地を奪い取ったり、彼らを低賃金で働かせ続けたりしてきた。そのため日本人の中には、「これだけいじめ抜いてきたのだから、関東大震災の混乱に乗じて復讐されてもおかしくない」のような疑心暗鬼が元々あったというのだ。そんなわけで、「やられる前にやり返す」という方向に思考が進んでいったのだろうと思われる。

そしてもう1つは、千葉日日新聞を舞台に展開される「メディアのあり方」に関する話だ。

結果的に事件現場に居合わせることになった女性記者が主軸となる描写なのだが、彼女は日々の仕事の中で上司から「ケツの文章を変えろ」と指示される。どういうことか。例えば強盗などが起こりその犯人がまだ判明していないような場合、当時は「朝鮮人や社会主義者がいずれ捕まるだろう」と記事を締め括るのが通例だったそうだ。つまり、「あたかも、朝鮮人や社会主義者が『悪』であるかのような印象操作」を新聞が当たり前のように行っていたのである。しかもこの点については「『お上』の意向を反映している」という示唆さえなされるのだ。

映画の中でこの女性記者は、上司の指示に毅然とした対応を取り、「新聞記者としてあるべき姿」を追い求めようとする。このシーンなどは特に、現代を生きる我々に直接的に向けられたメッセージではないかと私は感じた。

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