
【問題】映画『国葬の日』が切り取る、安倍元首相の”独裁”が生んだ「政治への関心の無さ」(監督:大島新)
完全版はこちらからご覧いただけます
安倍元首相の国葬の1日を追ったドキュメンタリー映画『国葬の日』は、政治や国家に対する国民の「気分」が如実に反映された、実に興味深い作品だった
本作『国葬の日』は、2022年9月27日に行われた安倍元首相の国葬の1日を、日本各地に派遣したカメラで捉えたドキュメンタリー映画である。実に思考を刺激する、非常にざわざわさせる作品だった。
私は基本的に「安倍元首相の国葬には反対」という立場を取っている
さて、作品の内容について色々と書く前に、まずはこの件に関する私自身のスタンスについて述べておくことにしよう。
まず私は、「安倍元首相の国葬開催」には反対の立場を取っていた。これは、安倍元首相の政治家としての評価とは関係ない。私自身の安倍元首相に対する評価については後で触れるが、「評価の良し悪しに拘らず、国葬には反対」という点をまずは強調しておきたい。
その理由は、「どう考えても『分断』が広がるだけだろう」としか思えなかったからだ。
本作上映後には、大島新監督による舞台挨拶が行われ、その中で彼は中曽根元首相の「政治家は常に歴史法廷に立つ被告人だ」という言葉を引用した。私もその通りだと感じる。もちろん、即効性のある政策などにより早く評価が可能な状況もあるかもしれないが、決してそういうものばかりではないはずだ。政治家の功罪の判断は結局、未来に生きる人に託すしかないのである。
そしてそもそもだが、政治家であるかどうかに拘らず、「ある個人を客観的に評価すること」は容易ではないはずだ。どんな悪人だって多少は良い部分を持っているだろうし、どんな善人だって生まれてから死ぬまで一切悪いことをしないなんてあり得ないだろう。そして大体の人間は、良い面も悪い面もほどよく持ち合わせているものだ。結局、「良い面を強調すれば善人に」「悪い面を強調すれば悪人に」見えるというだけの話であり、「客観的に個人を評価する」ことなどまず不可能だと私は考えているのである。
さて、ここで安倍元首相の話に戻すが、生前の彼は明らかに「様々な毀誉褒貶にさらされ続けた人」だったと思う。私には「悪い面」が強調されて見えていたが、彼の「良い面」を積極的に評価する人がいたことも知っている。政治家として優れていたのかは分からないが、常に「0か100か」みたいな受け取られ方がされる生き方だったように私には見えていたというわけだ。「0と受け取る人は100を見ないし、100と受け取る人は0を見ない」という状況が平行線のようにずっと交わらなかったように思う。
そしてそのような人物の「国葬」を行うとなれば、そりゃあ世論が真っ二つに割れるなんて火を見るより明らかと言えるだろう。「国葬を行うか否か」という判断の際に、このような想像が出来なかったのかと、私にはとても不思議に感じられてしまう。作中ではインタビューアーも務める大島新が、「今日この日が、まさに『分断の日』に感じられます」みたいな感覚を人々に投げかけつつ話を聞いていたのだが、まさにその通りだと私も感じた。「偉大な人物なのだから、国葬は当然だ」みたいな判断をする人がいてもいいのだが、そういうこととはまた違ったレイヤーで私は、「このような分断を加速させる国葬は行うべきではなかった」と考えているというわけだ。
ただ私は、「理屈が通ってさえいれば、自分と異なる価値観にも理解を示す」という意識を常に持っているつもりなので、次のような意図で国葬が行われたのであればまだマシだと思える。それは、作中で誰かが話していたことでもあるのだが、「反対が多くても強行することによって、『どれだけ反対の声を挙げても無駄だ』と思わせようとしている」というものだ。私はもちろん、そのようなやり方を許容しきない。しかし、「意図があってやっている」ことは理解できるし、理屈も通っていると言えるだろう。国がもし、「分断上等!」みたいなスタンスで国葬を強行したというのであれば、理解出来なくはない。
しかし私の感触では、まずそんなことはないだろうと思う。安倍元首相の銃撃事件から国葬決定に至るまでの流れは当時の報道でなんとなく追っていたが、政府は恐らく、「凶弾に倒れた安倍元首相の死には日本中が悲しんでいる。となれば、彼の国葬を行えば国民から広く賛同を得られるだろうし、支持率も上がるはずだ」みたいな皮算用で国葬を決めたはずだ。そしていをに、私は許容できない。
ごく一般的な感覚を持っていたら、「安倍元首相の国葬を行えば、『分断』が加速する」ぐらいのことは想像出来たはずだし、何よりもまず、その意味で私は国葬に反対だった。さらに、そんな想像力さえ持ち得ない人たちが国葬を決断し実行しているわけで、なおのこと許容できるはずがないのだ。これが私の基本的なスタンスである。
「ソフトな独裁」を強いていたように思う安倍元首相のことは好きになれない
さてその上で私は、安倍元首相のことが明確に嫌いだったので、そういう意味でも国葬には反対だった。
安倍元首相のことが嫌いだった理由を説明する前にまず、「ソフトな独裁」について触れることにしよう。私はよく、今の日本の政治を「ソフトな独裁」と捉えている。「独裁」とは一般的に、「国民の意思に反して、国家があらゆる手を尽くして暴力的に舵取りを行う」みたいな印象ではないかと思うが、私が言う「ソフトな独裁」とは、そこから「暴力的」という要素を取り除いたものと考えてもらえばいいだろう。単純に文章にすれば、「国民の意思に反して、国家があらゆる手を尽くして舵取りを行う」という感じである。
もちろん、それ自体は決して悪いことではない。もし国が、「私が良いと感じる方向」に導いてくれているのであれば、「ソフトな独裁」の方が決断も実行も早いだろうし、政策が迅速に実現されるはずだからだ。しかし残念ながら今は、「私が良いと感じる方向」に進んではいない。そのため、現状の「ソフトな独裁」も許容できないというわけだ。
さて、この「ソフトな独裁」は間違いなく、「我々国民の”協力”」無しには実現し得ない。「独裁」については、「暴力的に」行われるからこそ「国民の意思を無視する」ことが可能だと言える。しかし私たちは、そのような状況にいるわけではないだ。だから、様々なやり方で声を上げれば、「ソフトな独裁」状態は今すぐにでも終わるはずだ。
しかしそうなっていないのは、我々が「政治には関心を持たない」という形で間接的に”協力”しているからだと言っていいと思う。だから私は、もちろん自戒を込めてではあるが、そのような「人々の政治への無関心さ」にも違和感を覚えてしまうことが多い。監督も似たような思いから本作を撮ったそうだ。舞台挨拶で、「政治に対する日本国民のスタンスにこそ関心があった」みたいな発言をしていたのである。
これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます
ここから先は
¥ 100
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?