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【リアル】社会の分断の仕組みを”ゾンビ”で学ぶ。「社会派ゾンビ映画」が対立の根源を抉り出す:映画『CURED キュアード』
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「無知や恐怖が分断を推し進める」ことを誇張して描き、現代社会の写し鏡となる映画
この記事の内容を理解するために、映画のざっくりした設定を理解しておく必要があると思うので、まずそれに触れておこう。「ゾンビ映画」でありながら、「社会の分断」を切り取るという、実に”社会派”の物語だ。
「メイズ・ウイルス」という新種の病原体が蔓延し、感染するとゾンビのようになってしまう。他人を襲い、襲われた人間も「メイズ・ウイルス」に感染するのだ。
しかし数年後、画期的な治療法が発明され、感染者の75%は回復に至った。彼らは<回復者>と呼ばれている。
つまりこの世界では、<メイズ・ウイルスに感染しなかった者><回復者><治療を受けても回復せず隔離され続けている感染者>という3つのまったく異なる立場が共存している、ということだ。
この設定から、現代社会に繋がる「分断」を描き出す物語なのである。
「見えないこと」の恐怖
映画『ジョーカー』で、主人公がバスの中で「笑ってしまう病気です」みたいなことが書かれた紙を乗客に見せている場面があった。これはまさに、「人間は見えるもので判断しがちだ」ということを明確に示す場面だと感じた。
突発的に笑う人間が近くにいる場合、「自分が笑われているのかも」「馬鹿にされているのか」と感じる人も出てくるだろう。「笑ってしまう病気」は目に見えないからこそ、目に見える「予期せぬ場面で笑うという行為」で判断されてしまう。
この映画でも、似たような恐怖が描かれる。
<回復者>は、「メイズ・ウイルス」から回復し、二度と感染しないとされている。
しかし、本当だろうか? 本当に回復したのか? まだ体内に病原体が残っているのではないか? 一度罹った人間が二度と感染しない保証などあるのか?
これらのことは、目に見えない。
目で見えることなら、まだ自分なりの判断が出来る。しかし、目には見えないのだから、「信じるか信じないか」の判断になる。
そしてこの映画では、「信じること」を阻む大きな問題が描かれる。それは、「あいつは、俺の大切な人を殺したじゃないか」という事実だ。そしてこれは、目に見える。
「<回復者>は安全な存在である」という「目に見えない事実」と、「<回復者>に大切な人を殺された」という「目に見える事実」が同時に目の前にある場合、やはり「目に見える事実」の方が圧倒的に強くなるだろう。
このような判断は何も、この映画に限ったことではない。例えば私たちは、「片腕が無い」とか「車椅子に乗っている」など、「目に見える障害」を持つ人には、「大変だ」とか「頑張って」という気持ちを抱きやすい。しかし、精神的な病など「目に見えない障害」を持つ人には、「ただ怠けているだけだ」というような厳しい意見が向けられてしまうこともある。
誤解されたくないので書くが、私は決して、「目に見える障害」の方が楽だとか、優遇されているだとか、そういうことを主張したいのではない。「障害」というものを外から見る場合の捉え方の違いに言及したいだけだ。
どうしても私たちは、「目に見える事実」の方が分かりやすいと感じるし、そちらの方がより重要だと考えてしまいたくなる。そしてそれ故に、「目に見えない事実」は恐怖の対象となる。「目に見えないから」という理由で、危険度が過剰に引き上げられてしまうことになるのだ。
しかも「目に見えない事実」の場合、何か変化があったとしてもそのことに気づかれないので、最初の印象から捉え方が変わる可能性もほとんどないことになってしまう。
いじめや差別などはもちろん、「目に見える事実」から始まることも多いし、それはそれで大きな問題だと思う。しかし、「目に見えない事実」に起因する分断は、危険度が過剰に引き上げられ、その印象が変わることがないために、終わりを見通すことがほぼ不可能となってしまう。
<回復者>という設定で「目に見えない事実」が引き起こす分断を描くこの映画は、私たちの日常とまさに直結する問題を切り取っていると感じた。
<回復者>とその周囲の人間の葛藤を具体的に捉える
より具体的に、この映画ではどのような分断が描かれているのか書いていこう。まずは、<感染しなかった者>と<回復者>の分断だ。
<感染者しなかった者>にも、様々な立場がある。
<回復者>に対して「クズ」「人殺し」など苛烈な言葉を浴びせて批判する者。目の前で愛する人を殺された怒りを捨てきれない者。そこまで強い感情を抱かなくても、「<回復者>が二度と発症しない保証はあるんだろうか?」と不安を抱く者。置かれている立場はそれぞれ違う。
もちろん中には、<回復者>を受け入れたいという気持ちの人もいる。感染しなかったのは運が良かっただけであり、自分が<回復者>の側にいた可能性だって充分にあるのだから、その判断はとても理性的で素晴らしいものだ。しかし、やはり最後の最後で踏み出せない気持ちも出てきてしまう。数年前の、パンデミックの記憶が蘇る。あの惨劇が二度と引き起こされないと、誰が保証できる?
<感染しなかった者>から厳しい見方をされてしまう<回復者>は当然、以前と同じような生活を送ることはできない。市民から拒絶され、まともな仕事に就けず、役人からも低い扱いを受ける彼らは、思わず「これなら刑務所の方がマシだ」と嘆いてしまう。
彼ら<回復者>のような状況に置かれた者は、歴史上様々に存在しただろう。魔女狩りやハンセン病など、「いわれのない理由で”穢れ”であると思われ、排斥される」という経験をした人たちだ。この映画はそういう意味で、ゾンビ映画という形式を借りながら、古今東西で起こった普遍的な分断を描き出しているとも言える。
しかし<回復者>たちには、実はさらなる苦しみが待ち受けている。それは、「自分が人を殺してしまった記憶が鮮明に残っていること」だ。
これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます
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