【異様】ジャーナリズムの役割って何だ?日本ではまだきちんと機能しているか?報道機関自らが問う映画:『さよならテレビ』
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東海テレビが「東海テレビ」を撮るドキュメンタリーは、「メディアとは何か?」を問いかける
どう受け取るのが正解なのか分からない映画
東海テレビと言えば、『ヤクザと憲法』『人生フルーツ』など、ドキュメンタリー映画の話題作を次々に発表する、その世界ではよく知られた存在だ。
そんな東海テレビが、「東海テレビ」自身を被写体にドキュメンタリー映画を撮る、という。
カメラが報道局に持ち込まれるわけだが、映画を観ている限り、監督である土方氏のほぼ独断のような形で撮影が始まったように感じられる。少なくとも、報道局の面々は誰も聞かされていなかったからで、持ち込まれたカメラとマイクに困惑していた。
翌日、当然報道局は抗議し(このようなやり取りが「社内」で行われている、というのがなんだか凄まじい)、両者で話し合いが持たれることになった。そして、最初の日から2ヶ月後、
という3つの条件を遵守することで、改めて報道局内にカメラが入ることになる。この冒頭のやり取りだけでも、なかなかに異様だ。
正直なところ、どこまで「ドキュメンタリー」なのか、つまり、映し出されている映像に演出や意図的な改変がないのか、私にはなんとも言えない。しかし、ドキュメンタリーで鳴らした東海テレビがそんなやり方をしていた、ということが発覚すれば致命的だろう。そう判断し、「これはドキュメンタリーなのだろう」と受け取っている。
というように、見方に非常に悩まされる映画ではある。言葉を正確に使えていないかもしれないが「自家撞着」のような雰囲気もあるし、「ウロボロスの蛇」のような捉えにくさもある。
映画の中で、
という問いかけがなされる場面が出てくるが、まさにこの映画全体がそんな状況にあると言っていい。そもそも「そこにカメラが存在する」という時点で既に「普段の現実」とは違う。ドキュメンタリー映画は元々そのような矛盾を孕む存在ではあるが、さらにこの映画では、「撮る側が撮られている」「報じる側が報じられている」という階層も存在することになる。
ややこしくならないはずがない。
この記事では、この映画のそういう「ややこしさ」には深入りしない。どうしても言葉で捉えるのが難しいし、やはりそれは自分で体感してもらうのがいいと思うからだ。
同じようなドキュメンタリーが過去に存在したのか寡聞にして知らないが、「ありそうでなかった設定」と感じるし、「メディア」というものの性質や存在意義にも改めて意識が向くのではないかと思う。
映画の内容紹介
先述した通り、報道局に無断でカメラを持ち込んだ後、話し合いの末ルールが策定された。そして、3人の人物を中心として、報道局の日常や業務、報道が担うべき役割、報道を生業とする者たちの人生などを切り取っていく。
東海テレビが「東海テレビの報道局」を被写体にした理由には、ある背景が存在する。具体的には書かないが、2011年に東海テレビはワイドショー番組の中で、信じがたいミスをしてしまったのだ。そのミスは報道局が犯したものであり(この映画からそうだろうと断した)、それもあって「東海テレビの報道局」が被写体として選ばれたのだと思う。
勝手な予想だが、「過去にとんでもないミスをした」という事実がなければ、仮に同じ社内同士であっても、「報道局内部をドキュメンタリー映画として撮影させる」ことなど認めなかっただろう。東海テレビは、かつての重大なミスを再び起こさず、報道を担う者としてどう向き合っていくのかを示していく必要がある。そんな決意を込めた合意であり、先の3条件という譲歩をしたのではないかと勝ってながら想像した。
この映画で主に映し出される3人は、以下のような面々である。
福島は、報道局が制作を担当している夕方の報道番組のメインキャスターだ。映画の冒頭では、福島が原稿を読み込み、相当準備をした上で放送を迎える、という一連の流れが映し出される。仕事熱心だと感じるだろうが、彼のこのスタンスはスタッフ受けがあまりよくない。事前にガチガチに準備してしまうせいで臨機応変の対応が出来なくなり、面白味に欠けると受け取られているのだ。
しかし、福島が念入りに準備をするのには理由がある。福島は、2011年の重大なミスを犯した番組でもメインキャスターを務めていたのだ。彼自身のミスではないが、彼にとって2011年の記憶は非常に苦しいものとして刻まれている。だからこそ、僅かのミスもないように、準備を怠らないのだ。
新人の渡邉は、記者としての基本があまり分かっていないまま報道の仕事に携わっている。彼がテレビの仕事に興味を持つようになったきっかけは変わっていると言っていい。自分が推しているアイドルから、「テレビの仕事がいいんじゃない」と勧められたからなのだ。映画には、彼がアイドルのライブイベントに参加する姿も映し出されている。
そんな渡邉は、やはりというべきか、残念なミスを連発してしまう。そして彼のミスを上司はこっぴどく叱るのだ。渡邉は、2011年のミスを自分の経験として知っているわけではない。そしてそれ故に、上司との間に温度差があるように感じられる。あんなミスを二度と犯したくはない上司と、その重大さが理解できていない渡邉との間の溝が描かれるというわけだ。
澤村は「是非モノ」、通称「Z」と呼ばれる取材を担当している。「是非モノ」というのは、「『是非取材に来て下さい』とお願いされるもの」であり、スポンサーなどが絡むこともあるものだ。
澤村は、自宅に関連本を多数揃えるほど、「ジャーナリズム」に対して信念を持っている。契約社員という身ではあるが、報道局の中でも「ジャーナリズム魂」は負けていないと自負しているほどだ。そんな澤村からすれば、「是非モノ」の取材は自分の理想とする仕事とは程遠い。しかし職務は職務として全うし、一方で自分の時間を使ってジャーナリズムに関する集まりなどに参加している。
この3人を中心に展開される映画だ。
マスコミの3つの役割と視聴率
彼らがどのような存在として映し出されるかの説明には、この映画の随所で挿入される「マスコミの役割」に触れる方がいいだろう。これは、子どもたちに向けて「マスコミとはどのような存在なのか」を説明するものとして描かれるものだ。
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