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【選択】映画『サウンド・オブ・メタル』で難聴に陥るバンドマンは、「障害」と「健常」の境界で揺れる

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「『障害』を『治すべきもの』と捉えない世界」で生きるべきか葛藤する主人公は、どんな現実に直面するのか?

私は以前、「ダイアログ・イン・サイレンス」というイベントに参加したことがあります。

ヘッドホンをつけ、まったく外部の音が聴こえない状態で、聴覚障害者の生きる世界を体感しようというものです。元々は「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」という、真っ暗闇の中で視覚障害者の世界を体感するイベントから始まったもので、そちらにも行ったことがあります。

真っ暗闇の場合、「通常のコミュニケーションは通用しない」とあからさまに痛感させられるため、「どうすればいいのか」という思考に割とすぐ切り替わるのですが、「ダイアログ・イン・サイレンス」の場合は、うっかり「聴覚に頼ったコミュニケーション」をしてしまいそうになります。「あぁ、そうか、聴こえないんだった」と改めて思考を切り替えなければならない瞬間が何度もありました。

その経験だけから「聴覚障害者の気持ちが分かる」などと言うつもりはもちろんありません。しかしやはり、この映画を観る上で、僅かながらでも似たような経験をしていたことは大きかった気がします。私たちが「当たり前」のように行っているコミュニケーションがいかに耳に頼っているのか、聴覚障害が視覚障害ほどに見た目では分からないことによる苦労など、少しはイメージできているはずです。

この映画では、バンドでドラムを叩いている主人公が、突然聴力を失ってしまいます。そんな現実に直面した時、私たちはどんな人生を選択できるでしょうか?

「障害」とどう付き合うべきか考えさせられる「施設長の言葉」

聴力を失った主人公は、知人の伝手を辿って聴覚障害者のコミュニティでの生活を始めます。皆が施設で共同生活するような環境です。

観客は最初、この施設について特段なんとも思わずに物語を追っていくことになるでしょう。ざっくりと、「同じ障害を持つ人たちが助け合う場所なんだろう」程度の理解になるはずです。私も大体そんな風に考えていました。

しかし、欧米でこのようなスタイルが一般的なのかどうかは分からないのですが、この施設には明確な運営方針があります。それが明らかになるのは映画の後半で、施設長がそれを口にした場面の前後で、主人公の人生が大きく変わっていくのです。

ここでの信念は、君も分かっているだろう。
聴覚障害はハンデではなく、治すべきものでもない、と。
その信念に沿って、ここは運営されている。

この施設長の言葉、そして主人公の決断、そういうものをひっくるめることで、この映画で問われていることが理解できると言えるでしょう。

それは、端的に言えば、「『耳が聞こえないという個性を持つ人物』として生きるか、『障害者』として生きるか」となります。

「耳が聴こえない」という状態が「問題」になるのは何故なのか考えてみましょう? 色んな答えが想定されるでしょうが、包括的に捉えると、「健常者との生活に支障が出るから」となるはずです。これは、「障害」とは呼ばれない状態を考えてみれば理解しやすいと思います。例えば、「太っている」「足が遅い」「お酒が飲めない」などは、決して「障害」とは呼ばれません。それは、「健常者との生活に支障が出ないから」だと言えるでしょう。

つまり、「健常者との生活」を選択するからこそ、「耳が聞こえないこと」は「障害」と呼ばれ、健常者の世界で「障害者」として生きることになるわけです。

しかし、果たしてそれが唯一の選択だろうか? とこの映画は突きつけます。

主人公が共同生活を行う施設は、「聴覚障害はハンデではない」と考えているわけです。それが「ハンデ(障害)」である理由は、「健常者との生活」を選ぶからに過ぎません。この施設では、「健常者との生活」は基本的に考えず、「聴覚障害を持つ者」だけのコミュニティを作り、その中で「『障害者』としてではない生活」を構築していくという方針を取っているのです。

聴覚障害を持つ者しかいないコミュニティでは、あらゆる日常生活が非常に”自然”に行われている印象があります。もちろん、生活における「不自由」はそこかしこにあるでしょうが、しかしそれは健常者の世界でも同じです。「太っているから階段の上り下りが大変」「背が低いから上の物が取れない」「冷え性だから冬は特に辛い」など、「障害」とは呼ばれない様々な事柄を背景に生活における「不自由」は生まれ得ます。

だから結局、「障害を抱えること」の最大の問題は「健常者とのコミュニケーション・協働」であり、だからこそ、それを気にしないでいられるのであれば、「障害を抱えること」の大部分の問題は存在しないことになるのです。

この施設での生活の様子を通じて、その点がとても強く伝わってきました。

もちろんこれは、「聴覚障害を持つ者たちが自ら発案し、自らの意志で運営しているコミュニティ」だからこそ成立するものです。健常者が「同じ障害を持つ人同士でコミュニティを作ったらいいじゃない」などと言うのは正しくないでしょう。だから私が健常者の立場であれこれ書くことはなかなか難しいのですが、しかし「選択肢の1つ」としては検討し得るだろうと感じました。

もちろんそう簡単にいかないことも分かっています。まさに映画でもその難しさが描かれるのです。主人公は、同じバンドを組むボーカルの女性と、「魂で結びついている」ような深い繋がりを実感しています。つまり、「健常者との生活を諦める」ということは、彼女との人生も諦めるということを意味することになってしまうのです。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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