見出し画像

【生涯】天才数学者ガロアが20歳で決闘で命を落とすまで。時代を先駆けた男の不幸な生い立ち:『ガロア 天才数学者の生涯』(加藤文元)

完全版はこちらからご覧いただけます


天才数学者・ガロアの「たった20年の生涯」に焦点を当てた人物伝

この記事の構成について

本書は、数学史上に名を残す大天才・ガロアについての本だが、一般的な「ガロアに関する本」とは違い、ガロアが生み出した理論に関する描写はほとんどない。本書の著者は数学者であり、数学に関する著作も多い人物だが、本書は数学書というよりは歴史書である。

ガロアは「20歳の時に決闘で死んだ」という、学問の世界に名を残す人間としてはかなり特異と言える死に方をしている。しかし、あまりにも有名すぎるこのエピソード以外は、ガロアの人となりを伝える作品は多くない。

著者はガロアという人物に強い関心を抱いているようで、数学者による本としては珍しく、偉人の過去を掘り下げていく内容になっている。さらに著者が数学者であるため、普通には理解しにくい「ガロアの発見の凄さ」を数学者の実感として知ることができるという意味でも、「ガロアという天才数学者の実像」を的確に捉えやすい1冊になっていると言えるだろう。

本書の内容すべてを書いてしまわないように、この記事では、「ガロアが数学に目覚めたきっかけ」と「ガロアが革命思想に目覚めたきっかけ」を中心に触れていくつもりだ。

ガロアはどれほど天才だったのか

本書では、数学的な記述はしないのだが、「ガロアはどれだけ天才なのか」に関する著者の実感はたびたび出てくる。

まずは、こんな文章からだけでも、ガロアの凄まじさが伝わることだろう。

彼は近代数学史上最大の発見と言っても過言ではない、巨大な業績を残しました。ただ単に何らかの問題を解いた、というだけにとどまりません。その業績は、それ以後の数学の歴史を根本から変えたのです。パラダイムを変えた、と言ってもいいでしょう。彼のもたらした原理や考え方は、現在でも数学研究の基層に生きていますし、数世紀先の未来でも同様でしょう

ガロアが生み出した「群論」という考え方は、現代数学のまさに基礎と言っていいものだ。「群論」無しでは現代数学の研究など行えないし、科学研究にも影響を及ぼすかもしれない。まさに「根本から変えた」発見なのだ。

それを、弱冠20歳の青年が成し遂げてしまったことについては、こんな風に書いている。

現在の我々の状況に翻訳すれば、高校生が突如として現代数学において大発見をする、という感じになるでしょう。しかも、それは単なる発見ではなく、その後の歴史の数世紀分を変えてしまうような種類の巨大で深遠な金字塔なのです。そんなことが本当に可能なのか? と疑いたくなってしまうくらいです

例えば、「高校生ピッチャーが大リーグのデビュー戦で完全試合を達成する」みたいな感じだろうか。とにかく、マンガでも描けないようなとんでもない偉業を成し遂げた、と言っていいと思う。

ガロアのが生み出した「群論」は、彼が生きた時代にはその考え方を記述する単語や概念が存在せず、ガロアはその当時存在した言葉だけでまったく新しい考えを説明する必要があった。例えるなら、「江戸時代に存在した言葉だけでスマートフォンの説明をする」みたいなものだろう。

そのような障害があったために、「ガロアの第一論文」と呼ばれる、ガロアが死の間際に遺した論文は、非常に理解しにくいという。だからこそ、当時の数学者にはなかなか受け入れられなかった。

著者もこんな風に書いている。

もちろん、例えば筆者が1831年当時にこの論文を見ていたとして、これを理解できたとはちょっと思えない。

本書ではこのように、「現役の数学者が、当時のガロアの凄さを、数学者視点で語ってくれる」という意味で、その凄さを実感しやすい作品になっている。

著者はガロアを絶賛しており、作中にはこんな文章もある。

数学という学問はこのような視点からも鳥瞰することができる。このことを二十歳のガロアは筆者に教えてくれた。それだけでも筆者は幸せだ!

数学者ではない私には正直、「群論」の強力さはあまり理解できないのだが、数学者がこんな風に語ってくれるお陰で、その凄まじさを間接的に実感できている。

”留年”のお陰で出会えた教科書

ガロアが生まれる少し前のフランスでは、「教育」の重要性があまり認識されていなかったという。その状況を変えたのがフランス革命であり、ナポレオンである。ナポレオンは「リセ」と呼ばれる高等中学校を設置し、教育に力を入れた。

そんな「リセ」の中でも特に超名門校として知られるのが「ルイ・ル・グラン」だ。ガロアはここに入学し、その中でも非常に優秀な成績を収める生徒だったという。

しかし一方でこの「ルイ・ル・グラン」は、超スパルタの学校としても有名だった。ガロアはここでの学校生活を通じて、「専制」や「圧制」を肌で実感する。これらは、後のガロアの革命に対する考えの基盤となったと考えられているという。さらに、ガロア自身が関わったわけではないが、「聖シャルルマーニュ祭の乾杯事件」なるものが起こり、その事件の顛末がガロアの中で「専制が強権を振り回した出来事」として記憶されることにもなった。

ガロアは優秀だったのだが、進級に関してゴタゴタに巻き込まれてしまう。一度進級するのだが、元の学級に戻されてしまったのだ。しかし結果的にの出来事は、ガロアが数学に興味を持つ大きなきっかけとなった。戻った学級で使われていた、ルジャンドルの「幾何学原論」という教科書に出会えたからだ。

マスターするのに通常2年は掛かると言われる難解な本だが、ガロアはたった2日で読んでしまったという伝説がある。その真偽はともかく、ガロアはもう数学しか目に入らなくなり、これまでの大数学者たちの著作を読んで独学するようになっていくのだ。

”受験の失敗”のお陰で出会えた先生と、数学者・コーシーの評価

その後ガロアは、「エコール・ポリテクニーク(高等理工科学校)」を目指すことになる。そこがパリの一流数学者たちの<住処>であり、パリはヨーロッパの学問の中心でもあったので「数学界の中心」と呼んでもいい場所だったからだ。

ガロアは一刻も早く「エコール・ポリテクニーク」に入学したかったので、1年早く受験するのだが、試験に落ちてしまう。この不合格については、「試験が形骸化していた」「能力は十分だったが、ガロアの態度に問題があると判断された」など様々な説が存在するようだが、ガロア自身は「公正さを欠いた試験だった」と受け取っていたそうだ。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

ここから先は

3,170字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?