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【悲劇】映画『プリンセス・ダイアナ』『スペンサー』で知る、その凄まじい存在感と王室の窮屈さ

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ドキュメンタリー映画『プリンセス・ダイアナ』と映画『スペンサー』の2作が、「ダイアナ妃の圧倒的な存在感」と「王室の窮屈さ」を描き出す

ダイアナ妃が亡くなった時、私は14歳だったようだ。だから正直なところ、その時点では「ダイアナ妃の凄さ」をあまりちゃんとは理解していなかったと思う。彼女に焦点を当てた2作品を観て、改めてその凄まじさが理解できたと言っていいだろう。

また、この2作品を観たことで「知らなかった基本的な事実」も理解できた。14歳だったこともあり、当時その詳細には関心がなかったのだろう。なので、「死亡した時はチャールズ皇太子と離婚が成立していたこと」「事故の際は恋人と一緒で、その恋人と共に亡くなったこと」などは、映画を観て初めて知ったように思う。

そんな「ダイアナ妃について詳しくない人間」が記事を書いているので、以下の記述には何か誤りがあるかもしれない。その場合は、単に私の知識・理解不足から来るものだと理解してほしい。

ドキュメンタリー映画『プリンセス・ダイアナ』の凄まじい構成

まずは、ダイアナ妃を取り上げたドキュメンタリー映画『プリンセス・ダイアナ』の方から紹介することにしよう。

本作は、まずその構成が凄まじかった。ドキュメンタリー映画の場合は一般的に、「対象となる人や組織に密着する」ことが多いだろうが、ダイアナ妃は既に亡くなっているのでそれは不可能だ。その場合、よくあるのは、「過去映像」と「その人・組織を知る存命人物へのインタビュー映像」などによって構成されるパターンだろう。

しかし本作は驚くべきことに、「過去映像のみ」で構成されている。これには驚かされた。私はドキュメンタリー映画をよく観るが、なかなかこのような構成の作品は無いように思う。現代であれば、誰もがスマホで映像を撮影できるが、ダイアナ妃が生きていた時代にはそんなことは不可能だった。そんな時代に撮影された映像だけを使って映画を1本作るというのだから、「ダイアナ妃がいかに注目されていたか」が理解できるだろう。

さらに本作には、「ナレーション」や「字幕」も存在しない。「現在視点からの補足情報」は一切存在しないのだ。使われている音声は「映像と共に記録されたもの」のみであり、そこに新たな情報が加えられることはない。普通なら、「この時ダイアナ妃はこのような状態にあった」「彼女があの時こんな風にしていたら、未来はどうなっていただろうか」みたいなナレーションが挿入されたりするだろう。しかし本作には、そんなナレーションはまったく存在しないし、さらに言えば、「いつ撮られた映像なのか」みたいな情報が字幕で表示されることもないのである。よくもまあ、そんなやり方でドキュメンタリー映画を完成させたものだと思う。

さて、そのような構成であるが故に、本作では実に様々な映像が使われている。例えば、冒頭の映像にはかなり驚かされた。流れるのは、バイクに2人乗りをしているカップルらしき男女が撮影した映像だ。彼らはルーブル美術館の前を通り過ぎ、その先にあるリッツホテルの周辺で人だかりを発見した。パパラッチの集団だ。そしてどちらかが、「VIPがいるみたいよ~」と声を上げる。どうやら、ダイアナ妃がそこにいるようだ。しかし、このカップルのカメラにダイアナ妃の姿は映りはしない。そんな、メチャクチャ個人的なプライベート映像から映画がスタートするのである。

本作ではこのように、「よくこんな映像を集めてきたな」と感じるような映像が流れていく。他にも、「スーパーマーケットでの買い物中に、店内アナウンスでダイアナ妃の懐妊が伝えられる様子」や、「UNOに興じている男たちが、ダイアナ妃の事故を報じるテレビを観ている様子」などが収められた映像が使われている。そしてそのような作品には、「ダイアナ妃が生きていた時代のリアルをそのまま届ける」という制作陣の強い意思が込められているように感じられた。

ダイアナ妃への注目度は凄まじかった

さて、先程も触れたが、このような構成の作品が作れるということは、ダイアナ妃の人気が凄まじかったことを示していると言えるだろう。もちろん当時も、「ダイアナ妃への熱狂」を冷めた目で見る人がいたようだ。使われていた映像の中でも、「マスコミが騒ぎすぎ」と語る一般人の姿がよく映し出されていたし、ダイアナ妃の死を悼む人々が集まった公園のベンチには、「みんな騒ぎすぎだ。頭が腐ってるんじゃないか」と暴言を吐く男性がいたりもした。まあ、「頭が腐ってるんじゃないか」という言い方もどうかとは思うが、熱狂を遠巻きに見ている人も当然いたというわけだ。

しかしそうだとしてもやはり、その熱狂ぶりにはちょっと驚かされてしまう。例えばテレビのナレーションは、チャールズ皇太子と共に歩くダイアナ妃を次のように評していた。

皇太子は2番手に甘んじています。

「プリンセス・ダイアナ」(監督:エド・パーキンズ)

皇太子はまるでエスコート役。

「プリンセス・ダイアナ」(監督:エド・パーキンズ)

本来は主役であるはずのチャールズ皇太子が完全に影に隠れてしまっていたというわけだ。チャールズ皇太子自身もあるインタビューの中で、次のように語っていた。

妻が2人いてくれたら楽だ。右と左両側を歩いてもらい、私は真ん中で指示を出すだけ。

「プリンセス・ダイアナ」(監督:エド・パーキンズ)

かなり自虐的な言い回しだが、そんな風にも言いたくなるような状況だったのだろう。あるいは作中には次のような言及もあった。

世間の注目を集めることに慣れていたが、突如それをダイアナ妃が独占した。

「プリンセス・ダイアナ」(監督:エド・パーキンズ)

チャールズ皇太子、いや英国王室は、イギリス国内外から常に多くの関心を向けられ続けてきたわけだが、その関心をダイアナ妃が一気に奪い去っていったというわけだ。このような表現からも、ダイアナ妃の人気の凄まじさが理解できるだろうと思う。

もちろん現代でも、王室や日本の皇室が話題に上ることはある。しかしそれらは概ね、「ヘンリー王子と結婚したメーガン妃の来歴や、2人の王室離脱」や「女性皇族との婚約を発表した男性の金銭トラブル」など、一般的には「スキャンダル」と呼ばれるようなものだと思う。しかしダイアナ妃の場合はそうではない。チャールズ皇太子との結婚によって、チャールズ皇太子を凌ぐほどの人気を獲得して話題になったのだ。日本でも、私にはあまり記憶はないものの、雅子様が皇室入りする際にはかなり話題になったような気がする。しかしだからと言って、雅子様が世界的な人気を獲得したかというとそんなことはないだろう。そういう意味でダイアナ妃は、ちょっと比較対象を見つけられないぐらいの存在と言えるのではないかと思う。

作中の映像では、チャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚について、「英国王室の男性が一般女性と結婚するのは300余年ぶり」「さらに恋愛結婚」と、その特異さが説明されていた。詳しくは知らないが、普通はやはり「それなりの血筋の人との結婚がお膳立てされている」みたいな感じなんだろうし、時代を遡ればそれは「政略結婚」みたいにも言われるのだろうが、そういう時代が長く続いたということなのだろう。そしてそれ故に、ダイアナ妃の「一般女性」「恋愛結婚」という特異さが注目されたという側面は間違いなくあるとは思う。しかし、やはりそれだけであれだけの熱狂が生まれることはないだろうとも感じる。

もちろん、結婚直後の熱狂は「一般女性が王室入りした」という驚きあってのものだったと思う。ただ、本作で使われている結婚後の映像は、「『王室らしからぬフランクさで人々と会話をする姿』に市民が感動しているもの」が多い。私の目にも、福祉施設や病院を訪れて患者と接したり、街中で子どもたちと話したりしている姿がとても印象的に映った。彼女は離婚後もボランティアで慈善事業に関わっていたそうで、「そのような活動が彼女のアイデンティティになっていたのではないか」と語る人もいたぐらいだ。そして恐らく、そうした姿が人々に受け入れられていったのだろうと思う。

燻っていた「王室への批判」を、ダイアナ妃の死が吹き飛ばした?

さて、本作で使われている映像は「ダイアナ妃の凄まじい人気」を示すものと言えるが、その一方で「英国王室の不人気さ」を映し出しているとも言えるだろう。確かテレビのアナウンスだったと思うが、ダイアナ妃が王室に加わったことを「王室にとって数世紀ぶりの吉事」と表現していたと思う。他にもテレビでは、こんな言い方がされていた。

時代遅れの王室が、愛すべき存在になりそうです。

「プリンセス・ダイアナ」(監督:エド・パーキンズ)

王室の結婚がこれほど騒がれるのは初めてです。

「プリンセス・ダイアナ」(監督:エド・パーキンズ)

そう、日本にいるとなかなか分からないものだが、英国王室はどうやら長く国民からの支持を失っていたそうなのだ。

私が本作『プリンセス・ダイアナ』を観たのは、エリザベス女王が亡くなった少し後のことだった。日本のみならず世界中で彼女の死が報じられただろうし、その扱われ方を見ていると、「英国王室には、国民から愛されていない時代があった」などとはなかなか想像しにくいだろう。しかし本作で使われている映像では、割と多くの人がカメラの前で当たり前のように王室批判を行っていたのである。それらは主に「チャールズ皇太子の不倫」に対する失望の言葉と共に語られることが多かったのだが、それと同時に、多くの市民が「君主制」にも言及しており、そのことがとても印象的だった。

君主制の礎は、国民からの好意だ。それを失った今、君主制は消えつつある。女王も、それは分かっているはずだ。

「プリンセス・ダイアナ」(監督:エド・パーキンズ)

これはテレビのナレーションだが、街頭インタビューでも、「君主制なんて古臭い制度を維持すること」への不満を口にする男性が出てくる。あるいは、ダイアナ妃とチャールズ皇太子の夫婦関係が誰の目から見ても明らかなくらい悪化している頃には、テレビでこんな言及もなされていた。

現代人が古い制度の中に放り込まれると、人は壊れてしまいます。誰もが壊れてしまうのです。

「プリンセス・ダイアナ」(監督:エド・パーキンズ)

ここで言う「古い制度」とは、恐らく「君主制」のことなのだろうと思う。このように英国王室は、「時代遅れの『君主制』を引きずる存在」として、批判の対象にもなっていたのである。

しかし、実に皮肉なことではあるが、「ダイアナ妃の死」が「王室への信頼」を復活させたかもしれないのだ。しかもそれは、王室が上手く立ち回ったからではなく、単なる「偶然」である。

ダイアナ妃が亡くなった後、国民はもちろん大いに落胆し、悲しみに暮れていた。しかし一方で、王室は半旗を掲げることもなく、というか何もしなかったのである。もちろん、チャールズ皇太子とは既に離婚が成立していたので、その対応が間違っていたわけではないと私は思うが、国民の怒りは収まらなかった。「王室はダイアナ妃の死に対して何か行動を起こすべきだ」と考える人が多くいたのである。テレビでは、この時の状況を次のように語っていた。

この国の問題は、王室を重視しすぎていることにある。王室の無関心に、人々は怒りを抱いている。

「プリンセス・ダイアナ」(監督:エド・パーキンズ)

良かれ悪しかれ、国民にとって「王室」が重要な存在であることに変わりはない。だからこそ、離婚し王室と関わりがなくなったとはいえ、亡くなったダイアナ妃に対して何もしない王室への批判が日増しに高まっていったのである。

そのような世論の声に押されたのだろうか、その後エリザベス女王とその夫が、ダイアナ妃のために手向けられた膨大な花束が並ぶ公園に足を運んだ。そして、その映像を流すテレビが、次のようなナレーションをつけていたのである。

悲しむ人々は、誰かに怒りをぶつけたくなる。今回は王室がその標的となった。しかし、これで人々の気持ちも変わるだろう。君主制は、救われたかもしれない。

「プリンセス・ダイアナ」(監督:エド・パーキンズ)

王室は恐らくこのような効果を狙っていたわけではないと思うが、「王室が何もしない」という批判を国民が抱き、その気持ちを王室に向けたことで、ある種の「ガス抜き」になった可能性があるというわけだ。本当にそうだとしたら、王室としては「幸運だった」としか言いようがないだろう。

あるいは、「ダイアナ妃の死が”功を奏した”」と言えるもっと分かりやすい状況を挙げることも出来る。

結婚から12年後ぐらいだったと思うが、ダイアナ妃とチャールズ皇太子は別居を決めた。離婚ではなく別居である。これは私の勝手な憶測だが、ダイアナ妃は離婚を望んだけれども、王室がそれを認めなかったのではないかと思う。

そしてその後2人は、タブロイド誌を使って「夫婦喧嘩」を始めることになる。ダイアナ妃は、パパラッチなどに追われ続けたこともありタブロイド誌を憎んでいたのだが、背に腹は代えられなかったのだろう。チャールズ皇太子も、「結婚当初からカミラ夫人と不倫しており、ダイアナ妃とはお世継ぎを産むための結婚だった」とタブロイド誌に語るなど、「ヘンリー王子・メーガン妃の王室離脱」と比べても遥かにスキャンダラスな話が世間の話題になっていたのである。

そんな騒動の最中、ダイアナ妃はBBC2に出演し、次のように発言した。

私たちの結婚は、当初から3人が関わっており、複雑だった。

「プリンセス・ダイアナ」(監督:エド・パーキンズ)

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