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【喪失】家族とうまくいかない人、そして、家族に幻想を抱いてしまう人。家族ってなんてめんどくさいのか:映画『浜の朝日の嘘つきどもと』

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震災後の「希望」と「幻想」を、地方の映画館を中心に描き出す見事な作品

素敵な映画でした。そして、高畑充希がメチャクチャ良かったです。

まず最初に、この映画が制作された背景を説明しておきましょう。福島中央テレビの開局50周年を記念して制作された作品なのです。映画の冒頭でこの事実がちゃんと示されますが、それを知った上で観れたのは良かったと感じました。

というのもこの作品では、震災や原発の話が扱われているからです。

地元のテレビ局だから誤りを犯さないなんてことはないだろうし、東北に関係ない人が震災・原発を扱ってはいけないなんてことももちろんないのですが、やはりなんとなく、「地元テレビ局制作だと、被災地の感覚から大きくは外れないだろう」という安心感が生まれると思います。

地元を知り尽くした面々が、地元を舞台に描く「福島の現実」というわけです。

震災後の福島に住む者たちが抱く、「希望」という名の「幻想」

この映画のテーマの1つは「幻想」です。それは、こんなセリフが出てくることからも分かります。

でもね、みんなその幻想にすがりたいのよ。

この映画では、直接的に「震災」が描かれているわけではありません。物語のベースとなるのは、全国どこでも同じ悩みを抱えているだろう「地方の過疎化」だと言っていいでしょう。地方からどんどん若者がいなくなり、町は寂れ、緩やかに衰退していく、そんな現状に対して立ち上がる者たちが描かれるというわけです。

ただ、そこに「震災」が加わることで、状況の厳しさが一層増すだろうとも感じます。映画の舞台は福島県・南相馬市、東日本大震災で甚大な被害を受けた土地です。厳しいと言われる地方の中でもさらに厳しい場所に今も住み続ける者たちが、「こんな風になってくれたらいい」と希望を抱くわけですが、やはりそれは客観的に「幻想」と言うしかないでしょう。もちろん、色んなことが上手く行く可能性もゼロではないのですが、なかなか難しいと言わざるを得ません。

福島県・郡山市出身ながら、色々あって東京に住んでいた主人公・浜野あさひの目にも、やはりそれは「幻想」に映ってしまいます。彼女が、

でも、その幻想が幻想でしかないって分かった時の絶望って、計り知れないと思うんだよなぁ。

と言う場面がありますが、非常によく分かります。

この作品で描かれる「幻想」は、なかなか協力だと言えるでしょう。誰もが当然「希望」を持って生きていきたいわけで、そういう想いが多数集まることで、ただの「希望」でしかないものを、「割と確実に起こること」であるかのように錯覚しているのです。そういう未来を想定しながら日々を過ごすことで、辛く厳しい「今」をやり過ごせるのなら、それは素晴らしいことでしょう。しかし結局どこかで、「やっぱりあれは『幻想』だった」と気付かされることにもなってしまうはずです。

彼らの「希望」が叶うことはないと、半ば断定するようなスタンスで文章を書いているのには理由があります。彼らが抱いている「希望」には、一筋縄ではいかない要素が含まれているのです。地方であり被災地であるという難しさがここにあります。

「家族という幻想」も、彼らの「希望」の中に含まれている

その一筋縄ではいかない要素が「家族」です。住民が抱く「希望」には、「こういうことが実現したら、『家族』が戻ってきてくれるかもしれない」という「幻想」まで含まれてしまっています。

つまり彼らの「希望」には、大きな飛躍が2段階存在しているのです。まず、「実現するか分からない、町の未来像」があります。さらに、「その未来像が実現したら、家族が戻ってきてくれるかもしれないという期待」も膨らんでいるというわけです。

ただし、現実的にはなかなか厳しいでしょう。「あり得ない」とまではもちろん言いませんが、仮に「町」が変わったところで、「人」は戻ってこないと考えるのが妥当だろうと感じてしまいます。戻ってくればラッキー、ぐらいに思っておかないと、現実が苦しいと感じられてしまうのではないでしょうか。

また、この「家族という幻想」については、浜野あさひのエピソードも描かれます。南相馬市の住民が抱くのとはまた違った形で「家族という幻想」に直面させられているのです。

東日本大震災が起こる前は仲の良い家族だった浜野家ですが、震災をきっかけに「家族の形」が大きく変わってしまいます。父親は、震災後の需要を見込んでいち早く独立、大成功を収めるのですが、一方で「震災成金」と相当批判されました。そのせいで、当時高校生だったあさひは友だちを失い東京へと転校、しかしやはり上手く馴染めず、優等生でしたが人生のレールを大きく踏み外してしまいます。母親は放射能に過敏になってしまい、あさひがどんなに懸命に話をしようとしてもまったく聞いてくれないのですが、唯一弟だけが母親を笑顔にすることができました。そして、こんな風に家族がバラバラになりかけている時、父親は独立したことによる忙しさから家を長期間空けていたため、さらに家族の溝が広がってしまったのです。

あさひはある場面で、

家族ってものに確信が持てなくなっちゃったんだ。

と言っています。「東日本大震災の前なら、『家族』というものに対してある種の『幻想』を抱いていられたが、今はもう無理だ」という意味です。震災後の世界を生きるあさひには、「家族」が単なる「幻想」に過ぎないと理解できてしまったのでしょう。そして震災前の世界には戻れない以上、「家族ってものに確信が持てなくなった」という実感のまま、これからも生きていくしかないと彼女は考えているのです。

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