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【母娘】よしながふみ『愛すべき娘たち』で描かれる「女であることの呪い」に男の私には圧倒されるばかりだ

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「女として生きる」ことのややこしさ、難しさ、やるせなさが詰まったよしながふみ『愛すべき娘たち』

私は男なので、この作品に描かれていることをすべて完璧には理解しきれていないでしょう。それでも、本書を読んで私なりに感じた「女として生きることの大変さ」について書いてみたいと思います。

本書は、ある母娘を中心に据えて、彼女たちやその周囲の人たちを描く、連作短編集のようなコミックです。

まずは内容紹介

【第1話】

雪子は、母・麻里をとても美しいと思う。しかし、決して自身の美しさを認めない人でもある。母親は再婚することもなく、これまで2人で生活を続けてきた。
 
その母が再婚を決めたという。母は、癌を患っていた。「これからは好きなように生きるの」と口にする母に対して、雪子は「これまでだって好きなように生きてきたくせに」と内心思う。
 
その時、雪子は30歳。母親の再婚相手である大橋健は、27歳だという。母とはホストで出会ったそうで、時代劇の役者を目指している。

雪子はそんな大橋と一緒に暮らすことになった。

【第2話】

大橋が、友人である大学教授の和泉を家に呼んだ。彼は、「研究室に押しかけてきた『薄気味悪い女』に強引に押し倒され、口で処理された」と話し、どうしたらいいだろうかと、麻里・雪子に相談した。

その後もその女子学生は、研究室にやってきては口で処理をして帰っていく。彼女との会話の端々から、まともな恋愛をしてこなかったのだということが分かる。本人は、そんな風には微塵も思っていないのだけれど。

そんな関係がしばらく続く内に、次第に和泉の気持ちが変わっていく。

【第3話】

雪子は、大学時代の友人2人と飲んでいる。1人は、作家の唐沢。もう1人は、建築士である祖父の仕事を継いだ莢子である。

話題は結婚の話だ。唐沢は結婚相手に求める条件が絶妙に高く、それもあって結婚できないでいる。雪子は、「綺麗なのにあんな十人並みの男と結婚するのね」と茶化された。

そんな2人の不思議は、莢子が結婚できないこと。女から見ても、非の打ち所がないほど「清楚で優しい女」なのだ。男なら放っておくはずがないと思うのだが、未だに結婚していない。

莢子は、身辺が落ち着いたこともあり、お見合いを始めることにした。しかし、どんな相手にも結局断りの電話を入れてしまう。

あの人に出会うまでは。

【第4話】

雪子は中学時代の女友達のことを思い出していた。牧村と佐伯。牧村は、「結婚したら男が家事をしなくなるのは当然だ。女が闘うしかない。私は、後々の女性のために、民間で定年まで勤め上げる」と言っていた。中学生のセリフとは思えない。雪子は、唐突にそんな記憶を蘇らせ、牧村と佐伯に結婚を報告する手紙を認める。

高校進学を機に、雪子は2人とは別の高校に進んだが、牧村と佐伯は同じ高校に入学し、その後も関係を続けた。佐伯は、牧村の言い分がどんどん変わっていく様を間近で見ている。そして、「編集者になりたい」と言っていた牧村の代わりなんてつもりはないのだが、佐伯の方が今は出版社の派遣社員として働いている。

あの頃の牧村は、もういない。

【最終話】

雪子は、ひいばあちゃんの葬式に参列した。祖母が号泣している様子を、母・麻里は冷徹に眺めている。

麻里は思う。私は、あなたが死んだって泣かないわよ、と。

母・麻里は子どもの頃、祖母から容姿について悪し様に言われ続けた。彼女は今でもそれを引きずっている。再婚相手の大橋の褒め言葉も、母にはまともに届かない。

客観的に見ても、母の容姿はとても美しいと思うのに。

どうして祖母は、母にそれほど厳しく当たったのだろうか。

窮屈にならざるを得ない「女性性」の呪縛を描き出す

私は、ほぼ女友達しかいないと言っていいくらい、日常的に関わるのは女性ばかりです。基本的には、女性と話している方が気が合うし楽だと感じます。女性の側もたぶんそう感じてくれているはずです。お互いにあまり性差を意識しないような関わり方が出来ていると自分では思っています。

逆に、男の世界にいると違和感を覚えることがとても多いです。男と喋っていると、「ん???」と感じてしまうことが多く、さらにその違和感を言語化して伝えても相手がまったく理解しない、という状況に度々遭遇してきました。

そういう、男に共感されない意見の1つが、「男は『男として生きている』というだけで女性にマイナスを与えている」という考えです。私は普段からそう感じていて、だから女性と関わる際には、「自分がマイナスを与え得る存在だ」ということをきちんと意識するようにしています。社会やルールや常識の多くが、基本的には「男に有利なように作られている」のであって、女性はそのハンデを常に意識させられながら生きているわけです。しかし男の側には、自分が「優位に立っている」という自覚がなく、だから「客観的に見て男女が『平等』に思えても、それは本当の意味での『平等』ではない」ということが理解できません。

そういう現実に直面する度に、「男女平等はまだまだ遠いなぁ」と感じさせられます。

もう10年以上前だと思いますが、当時同じ職場で働いていたアルバイトの女性から聞いた話は、メチャクチャ衝撃的でした。彼女は、「昔のように『選択肢のない環境』で結婚できればいいのに」と言っていたのです。

彼女の主張はこうです。一昔前の女性は、「親が決めた相手と結婚しなければならない」など、かなり選択肢が制約された環境で生きなければなりませんでした。しかし、今と比べれば、彼女にとってはその「選択肢のない環境」の方がマシだというのです。

その理由は、「現代は、ただ単に選択肢が増えただけ」だからです。確かに一昔前と比べれば、結婚相手を自由に選べるようにはなったでしょう。しかし、誰もが「理想の結婚」に辿りつけるわけではありません。特に「結婚」のような、相手との相性など様々な要素が関係してくるものであればあるほど、もの凄く努力したり、運を引き寄せたりでもしない限り、「理想」にはたどり着けないはずです。

そして、「結局のところ『理想』にたどり着けない人の方が多いだろうし、だとすれば自分はきっとそっち側だろう」と彼女は考えます。そうだとすれば、一昔前のように「選択肢のない環境」の方がマシだ、と思っているというわけです。

その理由は、「選択肢が増えたのに理想にたどり着けないのは、自分が悪いですよね?」という見られ方にあります。「選択肢のない環境」であれば、上手く行かなかったとしても、少なくとも自分では「自分のせいじゃない」と思っていられるでしょう。しかし、「選択肢が広がった世界」では、失敗は自己責任でしかありません。そんな風に思わされるくらいなら、選択肢などない方がいい、というわけです。

男の中には、「結婚における女性の選択肢が増えた」という事実を以って「この点では男女平等だ」と考える人もいるかもしれません。しかしそんなはずはないでしょう。社会における他の様々な部分が連動して変わっていかなければ、総合的には判断できないはずです。そしてさらに、「選択肢があるんだから、ダメなら自己責任だ」という見られ方にもなってしまうのであれば、「そんな選択肢要らない」と感じることも仕方ないのかもしれません。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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