見出し画像

【葛藤】正論を振りかざしても、「正しさとは何か」に辿り着けない。「絶対的な正しさ」など存在しない:映画『由宇子の天秤』

完全版はこちらからご覧いただけます


「正しい」と感じる時、私たちは何をどのように判断しているのか?そして、「正しい」とは一体なんなのか?

「『正しさ』は人によって違う」という感覚さえ、すべての人と共有できるわけではない

私は普段可能な限り、「正しい」という言葉を口にしないようにしている。それは、私なりの基準で「正しい」と判断できる状況が少ないからだ。「主観的に『正しい』と感じる」状況は多々存在するが、「自分以外の誰もが、それを『正しい』と感じるべきだ」と主張できるような状況はほとんどない。

そのような考えの根底には、「『正しさ』は人によって違う」という前提がある。私は、このような考え方を「当たり前」だと感じるが、しかし世の中にはそうではない人もいるようだ。

正論が最善とは限りません。

分かりやすいのは、「正論こそ正義」と考えるような、いわゆる「正義中毒」の人だろう。私の考えでは、正論はあくまで指針の1つに過ぎず、正論ではない別の解が最善である可能性も残っていると思う。しかし、「正論=最善解」と考えたい人もいるし、そういう人からすれば、「正論を言っている自分の考えを受け入れないなんて信じられない」という感覚になるのだろう。そういう人は、「『正しさ』は人によって違う」という考えを許容できないと思う。

ただ、私は決して、そういう人たちを否定したいのではない。「独自基準の『正しさ』」に固執しなければ社会の中で踏ん張っていられない、なんて人もいると思うからだ。もちろん、単純に思考力や想像力に欠けていて、「『正しさ』は人によって違う」という発想に至れないだけの人もいるとは思うが、パッと見でそれを判断することは難しい。だから私は、「正論を口にすることでしか自分を支えられない人なのだろう」ととりあえずは受け取ることにしている。

映画の中で、ドキュメンタリー映画のプロデューサーが、こんなことを言う場面がある。

俺たちが繋いだもんが真実なんだよ。

「集めた素材をどう編集するかで、真実なんかいかようにでも作れる」という主旨の発言だ。これもまた、「『正しさ』は人によって違う」という主張の1つだが、「意図的に人を騙そう」というニュアンスが強いものであり、なかなか受け入れがたい。

しかし逆説的に考えれば、このような主張がまかり通ってしまうという事実こそが、「『正しさ』は人によって違う」という共通理解の難しさを示しているようにも感じられる。

どんな現実も、「どう切り取るか」「どこから見るか」で様相はまったく変わるはずだ。しかし、テレビやYoutube、Instagramなど、「そこから発信される情報を『正しい』と信じているメディア」から届く情報を、多くの人が無条件に受け入れてしまう。どんな情報も、意識的かどうかは別として、「誰かが、なんらかの”意図”を持って切り取った現実」に過ぎず、どんなメディアから発信されようが、「その情報が現実を正しく捉えている確証」などない。

しかし私たちは、「分かりやすいもの」「理解しやすいもの」「受け入れやすいもの」を好んでしまう傾向があり、それが現実を正しく切り取っているかどうかに関係なく、「心地いいと感じる情報」を優先的に選んで取り込んでしまっているはずだ。

だからこそ、「俺たちが繋いだもんが真実なんだよ」という言説がまかり通ってしまうことになる。つまりこれは、私たち受け手の問題だと言っていいだろう。

「『正しさ』は人によって違う」という認識を持てないことによって、その人自身が不利益を被るだけであれば、正直大した問題ではない。マズいのは、「他人に『正しさ』を強要する」という行為によって、「個人の断罪」がそこかしこで当たり前のように発生してしまうことだ。

司法だけじゃない。社会が許さないの。

SNSなどによって、「『正しい』と主張する声」がどんどん増幅し、まるでそれが社会全体の意志であるかのように力を持つ。そうなってくるともう誰にも止められない。

そういう世の中では、誤った行為だと分かっていても「『自分は正しい』と主張する人に絡まれないための振る舞い」をせざるを得ないこともあるだろう。そしてその積み重ねが結局、「正義」を遠ざけることにも繋がってしまうはずだ。

なかなか捻れた社会だと思う。

登場人物がそれぞれに、「正しさとは?」という問いを突きつけられる

映画の登場人物たちはそれぞれ、違った形で「正しさとは?」という問いに向き合わされる。

由宇子はドキュメンタリーの監督として、3年前に女子高生が自殺した事件を追っている。「加害者は一体誰なのか?」について今も疑問が残り続けている事件であり、由宇子は「被害者家族」と「加害者と見做されている人物の家族」の双方にアプローチをし、事件の真相に迫ろうとしているのだ。

その一方で由宇子は、まったく想像もしなかった方向から「どう行動するのが『正しい』のか?」と逡巡する件に巻き込まれる。彼女はその暴風のような状況によろめきそうになるが、「隠蔽」という選択肢も含めた「最善解」を探る奮闘をせざるを得なくなった。

女子高生の自殺において「加害者と見做されている人物」は担任の教師であり、彼は自殺してしまっている。彼の母親と姉は、その無念を晴らそうと由宇子の取材を受ける決心を固めた。壮絶な「報道被害」にさらされ、幾度となく引っ越しを余儀なくされている2人は、「自分たちの平穏な生活」と「家族の無念を晴らしたいという気持ち」の狭間で、どう行動すべきか葛藤し続ける。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

ここから先は

1,863字

¥ 100

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?