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【感想】是枝裕和映画『ベイビー・ブローカー』は、「赤ちゃんポスト」を起点に「正義とは何か」を描く

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善悪は一体何で決まるのか? 映画『ベイビー・ブローカー』から、「正義のあり方」について考える

「これが正義である」という押し付けに、私は耐えられない

少し前に、アメリカでとんでもないニュースが報じられました。かつての最高裁判決を覆す判断により、「中絶」が認められなくなるかもしれないというのです。調べてみると、既に州によっては中絶を原則禁止する法律が制定されているのだそう。なんと性犯罪や近親相姦でも例外的な扱いとはならず、一律に禁止するというから驚きです。

宗教や家族観など様々な要因が絡み合っている話だろうと思うので、各論に立ち入ってあーだこーだ言うつもりはないのですが、とにかく私は、「『中絶しないことこそが正義』という押し付け」に苛立ちを覚えてしまいます。どんな理由があろうと、「子どもを産むか否か」の判断において、母親(そして、その子の生物学的な父親)の意志が最優先されない状況は、イカれていると感じてしまうのです。

「子どもを産む」ということに関して、非常に印象的だったエピソードがあります。以前読んだ『ヤノマミ』(国分拓/新潮社)という本に書かれていたものです。

ヤノマミ族には、「生まれたばかりの赤ちゃんは『精霊』でしかない」「母親が抱き上げることで初めて『人間』になる」という考え方があるのだそうです。これはつまり、「母親が抱き上げなければ、『精霊』のまま天に還っていく」ことを意味します。もっと直截に言えば、「母親は、我が子として迎え入れられないと判断した子どもは、そのまま殺してしまう」のです。

「酷い」と感じる風習かもしれませんが、日本でもかつては「姥捨て」や「間引き(子どもを殺すこと)」などが行われていました。だから、単にその行為だけを摘み上げて批判しても意味がありません。ヤノマミ族は彼らなりの理屈や歴史を背景に、そのようなやり方を身に着けていったわけです。

重要なのは、「『子どもを抱き上げるか否かの判断』は完全に母親1人に委ねられている」ということでしょう。父親も共同体も、母親の決定には関わらないし、異議を唱えることもないのです。これは、「母親の意志が最優先されている」という意味において、最も理想的な状況と言えるかもしれません。もちろん、同じやり方をそのまま日本に当てはめられはしませんが、私たちはヤノマミ族のような方向を目指すべきはなのではないかと感じました。

また、「正義の押し付け」という意味では、「被害を減らすために権利を制約する」というやり方にモヤモヤさせられることもあります。

例えば先日、「動物愛護法が改正されたことで、『保護できる動物の数』に制約が生まれてしまった」というニュースを目にしました。

動物愛護法では、「1人が動物を何頭まで飼って良いか」が定められています。これは、ペットショップでもブリーダーでも保護施設でも条件は同じです。そして法改正によって、その基準がさらに厳しくなります。つまり、今までと同じ数の動物を飼育するためには、より多くの人手を集めなければならないことになくなったのです。

もちろん、人を増やせるなら問題ないのですが、そんな余裕があるところばかりではありません。なので、実際には、「飼育する動物を減らす」しかなくなってしまうのだそうです。確かに、「飼育しきれないほどの多頭飼い」が社会問題になるケースもあり、「動物虐待」と呼ぶべき状況になってしまったりもします。その大作としての法改正なのでしょう。しかし、「そのような『被害』を減らすために、元々あった『権利』を制約する」ことで、真っ当にやってきた人たちが適切な行動を取れなるという、本末転倒な状況になってしまっているのです。

同じようなことは、「AV新法」に対しても感じました。これも、「被害を減らすために権利を制約する」というやり方と言っていいでしょう。しかしそのことによって、健全にやってきた人たちがまともに仕事が出来ない状況に置かれてしまっているそうです。どうして、「マズイ状況を取り締まる」という形に出来ないのかが、私には理解できません。

世の中のあらゆる場面で、「被害を減らすために権利を制約する」という振る舞いが、あたかも「正義」であるかのように扱われます。私はその風潮に、とても違和感を覚えてしまうのです。「被害を減らす」というのは、とても聞こえのいい言葉なので、誰からも反対されない主張だと言えるでしょう。そのため、「これに反対する奴はおかしい」みたいな理屈で物事を通そうとしているようにも感じられるのです。

「被害ゼロこそが正義だ」という考えは、社会をとても窮屈にするでしょう。もちろん、被害は少なければ少ないほどいいですし、ゼロになるなら素晴らしいと思います。しかしそのために、「正しい行いが大幅に制約される」という状況は、果たして「正義」と言えるのでしょうか?

映画『ベイビー・ブローカー』は、日本でも話題になったいわゆる「赤ちゃんポスト」を核に、「正義」について考えさせる物語です。果たして、「赤ちゃんポスト」は「正義」と言えるでしょうか?

「産んでから子どもを捨てるより、産む前に子どもを殺す方が罪が軽いって言うの?」に、あなたならどう答えるか?

『ベイビー・ブローカー』は、「『赤ちゃんポスト』に捨てられていた子どもを、勝手に売り捌こうとする」という展開の物語です。そして、この映画において「本質的に悪いと言える行為」は「人身売買」だけだと私は考えています。つまり、「赤ちゃんポスト」の存在もそれを利用する親も決して「悪ではない」という立場です。

映画の舞台である韓国には、日本よりも「赤ちゃんポスト」がたくさんあるそうです。しかし、一般的に受け入れられているポピュラーな存在なのかと言えば、決してそうではありません。映画でも、「赤ちゃんポスト」に対する批判が、様々な形で示されます。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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