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【驚嘆】映画『TAR/ター』のリディア・ターと、彼女を演じたケイト・ブランシェットの凄まじさ

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天才女性指揮者リディア・ターを複雑に描き出す映画『TAR/ター』は、芸術の高みに上り詰めるための狂気に満ち溢れている

凄まじい引力を持つ映画だった。物語は、リディア・ターという女性指揮者を中心に展開されるのだが、彼女が放つ「何か」がかなり強烈で、その「何か」に引き寄せられるようにして最後までスクリーンに釘付けにされた、という感じだったのである。

リディア・ターの多層性、複雑性

しかし、映画を最後まで観ても、「分かった」という感覚には達しなかった。正直なところ、この映画が何を描き出そうとしているのか、今も私はちゃんと掴みきれていない。物語の焦点がどこに当たっていたのかが、上手く捉えきれなかったのだ。

もちろん、焦点は常に「リディア・ター」に当たっている。しかしそれは、あくまでも「縦軸」と捉えるべきだろう。映画『TAR/ター』には、何か「横軸」に相当するものもあったはずだ。しかし、それが何なのかが分からない。あまりにも、「縦軸」であるリディア・ターの存在感が強すぎて、他のすべてがぼやけてしまうような感じもあった。

さてしかしながら、彼女の「存在感」はパッと見では分かりづらい。というのも、最初の内ターは、物腰の柔らかい穏やかな人物として描かれていくからだ。

私は、主演のケイト・ブランシェットが有名な女優だということさえも知らずにこの映画を観た。後で『TAR/ター』に関するネット記事を読んで、「凄まじい役作りをする役者」であるとようやく認識したぐらいだ。今作でも、ピアノと指揮をプロフェッショナルから本格的に学び、劇中のすべての演奏シーンを代役なしで演じきっているという。役作りのために、アメリカ英語とドイツ語をマスターしたというから、その努力は凄まじいものがあると言えるだろう。

例によって、この映画を観ようと思ったのは、劇場で流れる予告映像がきっかけだったのだが、そこには「狂気的」といった類のコメントが並んでいた記憶がある。とにかく、「リディア・ターはクレイジーな人物である」という点を強調した予告だったのだ。だから映画が始まってしばらくの間、勝手にイメージしていた感じと大分違っていて、まずその点に驚かされてしまった。

映画の冒頭では、ターがトークイベントの場でインタビューアーの質問に答える姿が映し出される。そのイベントの始めに、ターの経歴が紹介されるのだが、それは音楽に無知な私でもその凄さがなんとなく分かるぐらい豪華なものだ。彼女は、カーティス音楽院、ハーバード大学、ウィーン大学を卒業し、世界の名だたるオーケストラで指揮棒を振るってきた。また、「エミー賞」「グラミー賞」「オスカー賞」「トニー賞」という4大エンタメ賞をすべて受賞した、「EGOT」と呼ばれる世界に15人しかいないレジェントの1人でもある。さらに、音楽研究のために、とある部族の集落で5年間生活を共にした経験さえあるのだ。そして現在は、世界最高峰のオーケストラの1つであるドイツのベルリン・フィルで、女性初の首席指揮者の立場にいる。「現代音楽における最も重要な人物の1人」と紹介されるのも当然だろう。

そして、そのような輝かしい経歴を持つ人物にしては意外なほど、実に穏やかな佇まいの人物でもあるのだ。もちろん彼女の場合、ただ座ってインタビューに答えているだけでも、自信やオーラのようなものが滲み出ている。しかし決してそれは、「威圧」のような印象を与えはしないのだ。

その背景の1つに、ターが女性であるという事実が関係しているのではないかと思う。

クラシック音楽では指揮者のことを「マエストロ」と呼ぶのだが、トークイベントの中で、この「マエストロ」という言葉が「男性名詞」であることが指摘される。この点についてどう思うか問われたターは、「女性名詞である『マエストラ』に変えるのも変だ」と返すのだが、このやり取りは明らかに、「指揮者は圧倒的に男性が占めていること」「その中で、リディア・ターという女性があまりに凄まじい活躍をしていること」を示していると言えるだろう。そしてここからは私の勝手な想像になるが、やはり圧倒的な男社会である指揮者の世界で生き残るためには、自分の「見せ方」を絶妙に調整し続けなければならなかったのだと思う。

そのため私は、冒頭からしばらくの間、彼女の「存在感」や「狂気」に気づけなかったのだろう。

ターは度々、何か薬を飲んでいる。何の薬かは分からないものの、恐らく彼女の「不調」の原因は、「自身がいる、クラシック音楽の世界そのもの」であるはずだ。圧倒的な男社会の中で、圧倒的な経歴を歩み続けるためには、一般的な「マエストロ」以上の凄まじい重圧に耐え続けなければならなかったのだろうし、そのことが彼女を少しずつ蝕んできたのだと思う。

物語は、「リディア・ター」という、冒頭では「あまりに完璧な装い」で登場した人物の「完璧さ」が、少しずつ剥がれ落ちていくという形で展開していく。「完璧さが剥がれて落ちていくこと」は、彼女にとって屈辱的な状況と言っていいし、その事実がさらに彼女を追い詰めていくことになる。明らかに負のスパイラルに陥った「天才」が、世間のイメージする「リディア・ター」であり続けるために狂気に飲み込まれていき、そのことによって、彼女自身の内側に元々あった「暴虐性」みたいなものが露わになっていく過程に目が離せなくなる作品なのだ。

物語における、2人のキーパーソン

劇中では、展開に応じてキーパーソンは変化していくわけだが、冒頭からしばらくの間特に関わりが深い重要人物を2人紹介しておこう。

1人は、ターが所属する楽団のコンサートマスターであるシャロンだ。ターはレズビアンであることを公表しており、シャロンはそのパートナーでもある。彼女たちは恐らく、法的に婚姻関係が認められているのではないかと推察される。というのも2人は、恐らく養子だろう女の子を育てているからだ。仕事でも日常生活でも重要なパートナーであり、お互いにとってかけがえのない存在なのである。

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