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【再生】ヤクザの現実を切り取る映画。『ヤクザと家族』から、我々が生きる社会の”今”を知る

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「ヤクザを排除すること」に、本当に意味があるのだろうか?

映画を観て、絶妙なバランスだなぁ、と感じた。ヤクザという存在を絶妙に肯定し、そして絶妙に否定もし、様々な捉えられ方がされる中で、「この細い針の穴を通すしかない」というギリギリのところを真っ直ぐ通っている映画だと思う。もちろん、「ヤクザ」をエンタメとして見せる作品は多くあるだろうが、「ヤクザ」を現実のリアルな存在として切り取りながら、現代において作品を成立させるにはこれしかないだろうなぁ、と思った。

生きる権利奪ってんのはそっちだろうが

このセリフからも分かるように、この映画で描かれているのは「ヤクザ」そのものではなく、「ヤクザを通じて見た社会」だ。だからこそこの映画は、「ヤクザという対岸の物語」ではなく「私たちの物語」だと言える。

「アンダーグラウンドを支配する存在」は必要だと思う

まず大前提として私は、「アンダーグラウンドを支配する存在」は必ず現れるものだと思っている。既に「ヤクザ」は、「アンダーグラウンドを支配する存在」として廃れてしまっただろうが、結局「半グレ」と呼ばれる人たちが出てきた。どんな立場の人間を取り締まろうも、アンダーグラウンドの世界が存在する限り「アンダーグラウンドを支配する存在」は決していなくならないし、どうしたってアンダーグラウンドの世界もなくならないだろう。

この前提に立てば、「アンダーグラウンドを支配する存在」=「警察がある程度管理しやすい存在」であることが望ましいはずだ。

そして私の認識では、「ヤクザ」はかつてそういう立ち位置にいた。批判もあるだろうし、時代の流れに逆らう意見だろうとも思うが、そういう意味で私は、「ヤクザ」は社会の必要悪だと考えているし、「ヤクザ」がいる方が”まだマシ”ではないか、とも感じる。

そう考える一番の理由が、「ヤクザ」の特殊さだ。

義理人情を重んじ、男を磨き、男の道を極めることです

義理人情じゃ、もう飯は食えねぇってことです

前者はヤクザが、後者はヤクザではない者が口にするセリフだ。どちらも「義理人情」という言葉を使っている。

「ヤクザ」は確かに、暴力的・威圧的な存在であり、法を犯す。ヤクザの抗争に巻き込まれて一般の方が亡くなることもあるし、覚醒剤などを販売することも多いだろう。ヤクザによるそういう直接的な被害を受けたことがある人には、どんな理屈があれ納得できないだろう。

しかし「ヤクザ」は、「義理人情」を重んじる組織であり、間違って機能するとヤクザ以外にも大きな被害をもたらすが、良い方に転べば「アンダーグラウンド」の世界は安定するはずだ。

「義理人情」がベースにあることで、「悪事」に一定の制約がかかる。また、マル暴の刑事ともほどよく付き合い、明文化されていない阿吽の呼吸のようなやり取りで落とし前をつけさせ、社会秩序を大きく混乱させない程度に警察権力がヤクザを押さえつける。警察がコントロールしきれない部分ももちろんあり、予想外の大きな被害が出てしまうこともあるが、そういう部分には仕方なく目をつぶり、社会全体として「アンダーグラウンドの秩序を安定化させること」を優先する。

これらが成り立つのも、「ヤクザ」が「義理人情」を行動原理とするからであり、「法律」を超えた領域で社会を安定させる機能を果たすのにとても有用だった、と私は考えている。

もちろん、当たり前だが、「アンダーグラウンドの世界」が無くなればいいと思っている。しかし、それはあまりにも理想論すぎる。

であれば、「アンダーグラウンドの世界と、社会がほどよく共存していくためにはどうすべきか」を考える必要がある。そう考えた時、すべてが最悪である選択肢の中で「義理人情を重んじるヤクザ」という存在は、最もマシだと思えるのではないか、という話をしているつもりだ。

一方、「半グレ」は違う。詳しくは知らないが、イメージだけで書くと、「ヤクザとは違い、警察権力でコントロール不可能な犯罪集団」ということになるだろう。ヤクザがいなくなった今、そういう「半グレ」と呼ばれる人たちがアンダーグラウンドの世界を支配しているのではないかと私は想像している。

それは、「義理人情」とは程遠い、とても殺伐とした世界だろう。金が儲かればなんでもアリという価値観で、「ヤクザ」だったらやらなかっただろう犯罪に手を出し、「ヤクザ」だったら抑えていただろう状況に躊躇なく足を踏み込んでいく。「ヤクザ」であれば阿吽の呼吸でコントロールできたものが、「半グレ」に変わってしまえばできなくなり、ただ「犯罪者」として逮捕するしかない。

もちろん、「犯罪者」として逮捕すればいいのだが、その労力は甚大だろう。「ヤクザ」をコントロールして社会を安定させていた頃とは比べ物にならない手間が掛かる。そしてそれ故に、捜査も逮捕も追いつかない、という事態も起こるはずだ。

「ヤクザ」の場合は、どこの組の所属か、破門されたかどうかなどの情報などがちゃんと記録され、恐らく警察もその情報を共有している。しかし「半グレ」の場合は、構成員は流動的であり、どこに誰が属しているかなどさっぱり分からない。そういう中で捜査をしなければならないのだから時間も掛かるだろう、という意味だ。

だから、「ヤクザ」の方が圧倒的にマシだと私は考えている。

繰り返すが、「ヤクザ」を称賛したいのではない。「アンダーグラウンドを支配する存在」を許容しなければならない世の中だと考えており、すべてが最悪の選択肢からどれを選ぶと聞かれた時に、私は「義理人情に生きるヤクザ」だと答える、という話である。

「悪の排除」と「ルールの範囲内ならセーフという感覚の蔓延」

我々が生きている世界では、現に「ヤクザ」が排除された。警察が法律を作り、厳しく締め付けをし、ヤクザの根城だった歌舞伎町などの繁華街はキレイな街に変わり、ヤクザは生き残れなくなった。

ヤクザを取り巻く環境はどうなったのか。

これからヤクザを取り締まるのは法や警察だけじゃない。世の中全体に排除されるようになりますよ

ヤクザはまず、法や警察から徹底的にマークされる。その厳しさは残酷だ。ヤクザを辞めても、概ね5年間はヤクザの関係者だとみなされるため、銀行口座は作れず、自分の名義で家も借りられないという。

冒頭で引用した「生きる権利奪ってんのはそっちだろうが」というセリフは、まさにこういう状況を指している。公権力が、「生きるための基本的人権」と言えるものをかなり制限しているのだ。

ただ、警察というのは公権力であり、時代の変化を見ながら、社会の安定化のために何をすべきか考え実行しなければならない立場だ。ヤクザの「生きるための基本的人権」を制約するという手法に対して、個人的にはやりすぎじゃないかと感じるが、公権力がそういう判断をしたのであれば仕方ないという感覚もある。

しかし、このような風潮は、一般市民にも及んでいる。そして、「ヤクザを締め付ける風潮が、社会全体を歪に変えるのではないか?」と、映画を観て改めて感じた。

例えば、こんなシーンがある。元ヤクザの登場人物が、ヤクザ時代のエピソードを話す場面だ。彼は一般人に車をぶつけられ、修理代として真っ当な金額を請求したのだが、なんとそのことで逮捕されてしまうのだ。一般人を恐喝した、みたいな理屈なのだろうが、既に時代はこうなってしまっている。

これは、間違っているのではないか? と私には感じられる。車をぶつけた一般人の方に、明らかに非がある。しかし、相手がヤクザだったことで、「ヤクザは法律で取り締まられる存在だから、何をしてもいい。ヤクザに恐喝されたってことにすれば修理代払う必要がないんじゃないか?」と考えて行動したのだろう。その理屈は、とてもじゃないけど真っ当ではない。

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