【衝撃】これが実話とは。映画『ウーマン・トーキング』が描く、性被害を受けた女性たちの凄まじい決断
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2000年代に起こった実話を基にした映画『ウーマン・トーキング』は、現代の話とは信じがたい狂気に満ちている
実話を基にした、とある「宗教コミュニティ」での物語
あまりに凄まじい物語だった。この作品をギリギリ成立させているのが、「実話を基にしている」という要素なのだと思う。正直なところ、「実話が基になっている」のでなければ、フィクションだとしてもあまりにもフィクショナル過ぎて、「受け入れがたい」という感覚の方が強くなってしまったかもしれない。フィクションだとしたらあまりにも現実離れしているため、「実話である」という要素が無ければ作品として成り立たないような印象さえある。
また、単に「実話を基にしている」という事実に驚かされたわけではない。それ以上に、「最近の出来事を扱っている」という点に凄まじさを感じた。
例えば、映画『ウーマン・トーキング』が「200年前の史実を基にしている作品」であるのなら、そこまで驚かなかったかもしれない。今以上に差別や偏見が酷かったわけで、「そういうことも起こり得たかもしれない」と思えた可能性もある。しかしこの映画の舞台は2010年なのだ。たかだか10年ちょっと前である。映画を観ながら、「さすがにその設定には無理があるだろう」と感じた。しかし、その印象は誤りだったようだ。本作には原作となる小説があるのだが、その小説で扱われている「実際の事件」は、2005年から2009年に掛けて起こったものなのである。映画を観れば私の感覚は理解してもらえると思うが、こんなことが「現代」に起こっているという事実には、きっと驚嘆せずにはいられないだろう。
さて、そんな「異常な出来事」が起こってしまった背景的な要素がある。正直なところ、私は映画を観ている時点では、その点についてほとんど認識できていなかった。劇中ではこの点についてほぼ説明されないので、映画を観る前に内容紹介など読んでいなければ知り得ない情報と言っていいだろう。
実は、主人公の女性たちが住んでいる村は「宗教コミュニティ」なのである。私も別に詳しいわけではないのだが、恐らく、「同じ宗教(映画を観る限り、キリスト教だと思う)を信仰する者たちが集まって共同生活しているコミュニティ」という感じなのだろう。「一緒にしないでくれ」と言われそうだが、日本人の私はやはり、「宗教コミュニティ」と言われると「オウム真理教の出家」を連想してしまう。オウム真理教の場合は都心のビル内にそのような施設を有していたために様々な軋轢を生んだわけだが、『ウーマン・トーキング』では、誰かの所有物なのか、広大な土地にコミュニティの生活が成り立っており、周囲との関わりもほとんどなさそうだった。そのような特殊な環境下で起こった出来事というわけだ。
先程も触れたが、この「宗教コミュニティ」という要素は、映画を観ているだけではなかなか理解できないだろうと思う。映画は基本的に、「女性たち(プラス男性1名)が真剣な話し合いをする」という、ほぼその状況のみで描かれる作品であり、女性たちは目の前にある喫緊の課題について激論を交わしているので、観客に向けて村の成り立ちなどについて説明する余裕はない。なので映画を観る前に、「宗教コミュニティ内で起こった出来事である」という点だけは押さえておくと、物語を理解しやすくなるだろう。
普段から、映画の内容をほとんど調べずに観に行く私は、本作における「宗教コミュニティ」という設定を鑑賞時点で理解していなかった。そのため、話し合いの冒頭の方である女性が口にする、「男たちを許さないと、天国での居場所を失う」みたいな発言の「重み」を正しく捉えきれていなかったと言っていい。「宗教コミュニティ」であるという事実を知らなければ、「キリスト教の人もいるし、そうでない人もいる」と考える方が自然だろう。私は、「たまたまキリスト教の信者が多くいる村」ぐらいにしか捉えておらず、この点は、映画を理解する上でちょっと障害になったと言っていいと思う。
「宗教コミュニティ」という要素が加わることで、一気に「非日常感」が増す。それ故、「自分には関係のない話だ」と感じてしまう人もいるかもしれない。しかし、より広く捉えれば、映画『ウーマン・トーキング』は「尊厳のための闘い」が描かれる作品でもある。生きていれば、様々な場面で「尊厳が踏みにじられる状況」に出くわすことがあるだろう。そういう時にどう考え、どう決断するのか。それが問われている作品だと私は感じた。
話し合いを続ける女性たちは、一緒に住む男たちに対して「塩を取って」「辛い時に背中をさすって」程度の「頼み事」さえしたことがない。2000年代に生きているとは思えないほど、圧倒的な抑圧状態に置かれているのだ。そんな女性たちが、「生き延びる」ために真剣に話し合い、ギリギリの決断を迫られる。そんな2日間を描き出す物語は、私が「男である」という事実も相まって、喉元にナイフを突きつけられ続けているような緊迫感を感じさせられる鑑賞体験だった。
まずは内容紹介
自給自足によって生活を成り立たせているとある宗教コミュニティ内で事件が起こる。村に住む女性たちが、寝ている間に暴行されていくのだ。被害女性たちは、朝目が覚めた時に、自信の局部から血が流れていることに気づく。妊娠させられる者もいるし、自殺してしまう者もいた。
女性たちが被害を訴えても、村の男たちは「幽霊や悪魔の仕業だ」とまともに取り合わない。しかしある晩、被害女性が犯人の1人を目撃した。その男を捕まえた後、仲間の名前も自白させ、ようやく事件の全容が明るみになる。彼らは、寝ている女性たちに「馬用の鎮静剤」を打ち、犯行を続けていたのだそうだ。
犯行グループは街へと連れて行かれた。そしてその後、保釈金の支払いのために、村の男たちが街へと出払う。村から男がいなくなるまたとない機会だ。この機会に、女たちは今後の身の振り方を考えることにした。彼女たちの前にある選択肢は3つ。「何もしない」「残って闘う」「出ていく」である。文字を読むことが出来ない村の女性たちは、「投票」のやり方を即席で学び、村の全女性の投票によって今後の行動を決めることにした。
その結果、「残って闘う」と「出ていく」が同数という結果になる。村の女性の総意を取りまとめるために、代表として3家族計11人の女性が話し合いのために集まった。さらに「字が書けるから」という理由で、以前村から追放されたものの先ごろ戻ってきた男性教師も同席し、決断のための話し合いがスタートする。
期限は、男たちが村を出ている2日間だ。
女性たちの議論の行き着く先は?
映画の基になった事件について少し調べてみると、その「宗教コミュニティ」には「『男尊女卑』を推奨する考え方」が存在していたそうだ。だから、村では男にしか教育を与えず、そのため女性は読み書きが出来ない。教育が与えられず、読み書きも出来ないとなると、「外の世界の知識」を手に入れることは不可能だ。だから、議論に挑む女性たちの中にも、「女は男に従属する存在だ」という考えが澱のように身体にこびついてしまっている者もいる。それ故に、女性同士でさえ意見がまとまらないのだ。
先に紹介した、「男たちを許さないと、天国での居場所を失う」という発言についても、男たちが「無知な女性を従属させるため」に、適当な考え方を植え付けて言いくるめようとしているだけだと考える方が自然だろう。この映画を観る上ではまず、このような背景が存在することを理解しておかなければならないのである。
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