【感想】映画『キリエのうた』(岩井俊二)はアイナ・ジ・エンドに圧倒されっ放しの3時間だった(出演:松村北斗、黒木華、広瀬すず)
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映画『キリエのうた』(岩井俊二監督)は衝撃的な作品だ。主演のアイナ・ジ・エンドの歌声の凄さは知っていたつもりだが、それでも圧倒されてしまった
冒頭、キリエ(アイナ・ジ・エンド)が歌い出した瞬間に泣きそうになった理由がまったく分からない
私はもうすぐ41歳になるのですが、視力が落ちてきたなぁと思う以外に、年齢的な衰えを感じることはほとんどありません。ただ、昔と比べて変わったなと感じるのは「涙もろくなったこと」です。本当にちょっとしたことで感動してウルっとしてしまうことが増えたので、そういう時には年齢を感じます。
しかしそれにしたって、本作『キリエのうた』の冒頭で、主人公のキリエ(アイナ・ジ・エンド)が歌い出したその瞬間に涙が零れそうになったのは、自分でも本当に意味が分からないなと思いました。
もちろん、アイナ・ジ・エンドのことは映画を観る前から知っていたし、その歌声だって聴いたことがあります。ただ、キリエが歌い出した瞬間の感覚というのは、正直、私がこれまでの人生で感じたことのないものでした。
私は普段、音楽を聴く習慣がほとんどないのですが、様々な場面で耳にする音楽に対して「これは好きだな」みたいに感じることはあります。ただそれは割と、「頭で良いと思っている」という感覚です。「身体が反応している」みたいな感じになったことはありません。また私は、「歌詞」をまったく意識せずに音楽を聴くので、単に「心地いいメロディだな」と頭で考えているということになります。
しかし、キリエの歌の場合は違いました。冒頭のシーンからずっと、キリエが歌っている場面では「身体が反応している」という感覚になったのです。人生で初めて、「音楽を聴いてゾクゾクする」という経験をしたような気がします。それぐらい、私にとっては凄まじい「体感」でした。
音楽との関わりが薄すぎて語彙力に欠けるのですが、アイナ・ジ・エンドの歌声はなんとなく「楽器が鳴っている」みたいな感じがしました。ギターもピアノも他の楽器も大体、複数の音が同時に出て、その重なりや響きによってより深い表現が出来ていると思うのですが、アイナ・ジ・エンドの歌声もそんな感じがします。普通の人の声は「単音」でしかないけれど、アイナ・ジ・エンドの歌声は「複音」に聴こえるみたいなことです。普通の人間の場合、なかなかそんなふうにはならないだろうし、これがアイナ・ジ・エンドの歌声の凄さの一端なのではないかという気がしました。
映画『キリエのうた』は、全体的にとても素敵な作品だったわけですが、やはり圧倒的にアイナ・ジ・エンドの歌声に打ちのめされた感じがします。「同じ映画を何度も観るリピーター」の存在は、「推し活」の一環としてよく聞きますが、本作の場合、「アイナ・ジ・エンド(キリエ)の歌声を聴きたい」という人が何度も繰り返し観に行くかもしれないと思いました。そんな風に感じるぐらい、私にはちょっと衝撃的な歌声だったというわけです。
ざっと内容紹介
さて、まずはざっくりと内容の紹介をしておきましょう。本作は、東京・大阪・北海道・宮城など様々な土地を行ったり来たりする構成になっています。物語のメインは「キリエが東京で音楽活動をするパート」なのですが、その合間合間に、キリエが辿ってきた人生や、その過程で関わりを持った人たちの話が挿入されるというわけです。映画を観ながら、「なるほど、それがそう繋がるのか」と感じることも多いと思うので、この記事では東京以外、どこで展開される話なのかに触れないでおこうと思います。
青い髪をしたイッコは、友人たちと飲んだ帰り道、路上でギターを抱えて座っている少女を見かけた。立てかけられた小さな看板には「Kyrie」の文字。イッコはそのまま友人たちと別れ、キリエと名乗るその少女に「何か歌って」とリクエストする。そうしてキリエは、目の前にいるイッコのためだけにその凄まじい歌声を響かせた。
イッコはキリエを食事に誘い、そのまま家へと連れて帰る。そして、「私がマネージャーをやる」と宣言した。キリエは基本的にほとんど声が出せないようで、唯一歌声だけは響かせられるのだという。そこでイッコはキリエと共に行動し、路上ライブに必要なものを揃えたり、ライブの様子をSNSにアップしたりするようになっていく。
小学校教諭のふみは、クラスの男児からある女の子の噂を耳にする。何を聞いても何も答えないから「イワン」と名付けたというその少女は、いつも古墳の辺りに出没するらしく、男児は「そこに住んでるんじゃない?」と適当なことを言っていた。そんなバカな。しかし、万が一そうだとしたら大問題だ。気になったフミは、意識的に古墳の辺りを覗いてみることにした。確かに女の子の歌声が聴こえてくる。しかし、どうにも人の姿は見えない。
高校生のマオリは、突然勉強をしなければならなくなる。スナック勤めのシングルマザーである母親からは元々、学費的に大学進学は諦めてくれと言われており、彼女は高校を卒業したらアルバイトするつもりでいた。しかしある日、状況が大きく変わる。店のお客さんから、「マオリちゃんの学費を出してあげるよ」と言われたというのだ。しかし、大学などまったく行くつもりのなかったマオリにとっては、学力が大いに問題だった。
そこでマオリの元に派遣されたのがナツヒコである。学費を出すと言った人物に頼まれて、マオリに勉強を教える家庭教師としてやってきたのだ。こんな風にしてナツヒコと勉強をするようになったマオリはある日、「ルカっていう後輩のことを知っているか?」と聞かれ……。
「仕方なかったこと」を積み上げていく構成の物語
それぞれのパートの繋がりが分からないように内容を紹介したので、映画を観ていない方には、個々の物語がどう関わっていくのか想像できないでしょう。フィクションなのでもちろん、都合の良い設定や展開もあったりするわけですが、それでも、リアリティを感じさせるギリギリのラインの絶妙な設定の中で、普通なら出会うはずのない人たちによる関わりが映し出されます。そして、それぞれが様々な葛藤や悲しみや苦しみを抱え込みながら、それでもどうにか無理矢理にでも前進していく、そんな姿が描かれえる物語というわけです。
時系列も舞台もかなりあっちこっちに飛ぶので、人によっては「苦手」と感じられる物語かもしれません。ただ、薄皮をめくるようにして少しずつキリエの過去が明らかになることで、キリエが背負っているものの重みや、キリエと関わった者たちの想いなどがジワジワと浮かび上がってくる構成はとても良かったと思います。
キリエやその周囲の人たちは、かなり辛い人生を歩んできたわけですが、それら1つ1つは「仕方ない」と感じるものばかりでしょう。少なくとも本作においては、悪意をもって他人を貶めようとする人物は出てこなかったと思います。物語に関わる誰もがその人なりの人生を精一杯生きていて、しかしそれでもどうにもならないことが起こり、積み重なり、それらが結果として、主にキリエという少女に降り掛かることになるというわけです。そういう「仕方なさ」みたいなものが強く浮かび上がる作品で、なんとも言えない感覚に陥りました。
また本作では、東日本大震災も扱われます。まさにこれも、「仕方ないこと」だと言えるでしょう。そして、これは私の曲解かもしれませんが、東日本大震災を含め、本作で描かれる描写の多くが、「『仕方ないこと』はどうしようもなく起こるんだ」というメッセージを含んでいるのではないかと感じました。作中で描かれる出来事の中で、「努力すればどうにかなった」と感じるものはほとんどなかったように思います。努力したかどうかに関係なく、どうしようもなく酷いことは起こってしまうものです。そして、「そういうものには抗えないし、それでも生きていくしかない」というのが、作品全体に通底するメッセージだと私には感じられました。
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