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おばあちゃんの生きた足跡

 
テニアン島生まれの私の伯母の一人は、戦後、ハワイ生まれの日系二世と結婚し、今もハワイに住んでいる。
 
女性の運命は、おそらく今も多分にそうだけれど、
昔はもっと、結婚相手によって変えられてしまっていたと思う。
 
おばあちゃんの師範学校の同級生の一人が、卒業後に結婚したその旦那さんがハワイに移民する決心をし、沖縄から二人でハワイへと渡った。

そのご夫婦の、日系二世としてハワイで生まれアメリカ人として育った息子さんが、戦後、アメリカ兵として東京に派遣され、母親の知り合いである、うちのおばあちゃんを頼って、訪ねて来た。

その息子(後の伯父)さんはその家で、年の近い伯母と出会い、恋をした。

最初伯母は、とくに心も惹かれなかったし、お客様としておもてなしはしたけれど、伯父に全く興味はなかったそうだ。
アメリカ育ちらしい率直な好意を伯母に寄せ、毎日のように通ってくる彼に、期待を持たせては可哀想だからと、おじいちゃんから話をした。
うちの娘は、まだ交際や結婚も考えていない子供ですからと。
それを聴き入れ、伯父は一度は、もう家に訪ねてくることも控えて、来なくなったのだけど、約二ヵ月後に、げっそりと痩せた姿で、また訪ねてきたのだそうだ。
やっぱり恋しくて、忘れられないと。
 
その姿と言葉に、伯母は、今度は真剣に考え始めた。
そして、彼のその気持ちに感謝し、応えたいと決心した。
 
やがて二人は結婚し、共にハワイへと旅立った。
 

以下はそのハワイの伯母が書いた、子供時代の思い出の抜粋です。
伯母の許可を得て、一部編集しながらここにご紹介します。

そのときの状況を想像するだけで、よく無事でいてくれた、と 
それだけでもう、ただ心からの感謝の気持ちが湧いて来る。
伯母の語る、そのときの祖母の目を、もちろん私は実際には見ていないけれど、何故か記憶の奥底に、その目が刻まれているような錯覚がある・・・
 
パラオ→フィリピン→台湾へと、戦時中に疎開した時の話です。
( )内は私が注釈として書き加えました。
 
*****
 
1942年、急に内地への疎開を告げられ、乗船の準備で大わらわになった。荷物は自分の大切なものを一つ、と言われ、私は千代紙を大事にくるくると巻いて持った。
父は同胞と島(パラオ島)に残った。
片手に握った白いハンカチを高く掲げ、振り続けながら桟橋の突端まで走り寄る父の姿が島陰に消えるまで、私達も身を乗り出して手を振り続けていた。・・・
 
(この後、1946年に東京で再会するまで、祖父と祖母&子供たちはお互いの消息も生死も全く不明のまま、それぞれ生き延びたのだそうです。)
 
マニラでは下船させられることになり、フィリピンから集められた疎開者の婦女子も加わり、大勢の家族がそれぞれの場所を、収容所の様なところで陣取っていた。・・・
 
戦局を見定めながらの出航だったので、夜の帳がすっぽりと降りた頃、私たちは船上の人となった。
内地への航路はだれも知らないが、子供であった私にも、フィリピンと台湾のあいだのバシイ海峡の危険度の高さは、大人の話から耳にしていた。そこは何隻ものアメリカの潜水艦が待機していて魚雷を放つと言われている、魔の海峡だ。
私たちの疎開に使われた巡洋艦には7隻の護衛艦がついていた、と聞いていた。
 
大海原に出た船は高波に煽られ、全員が船酔いに苦しんでいた。・・・
轟音が響いた。又響いた。海面が大きく揺れ出し、近くで波飛沫が高く上がった。波は大きく渦を巻き、ぶつかり合う波に海は荒れ狂い、私たちの船団は魚雷の攻撃を受け始めていた。

走り回る兵隊さんが、全員甲板に集まる指示を出した。船倉から甲板にかかる細い階段は、列をなす人で一杯だった。
我先に、と動きが取れなくなった階段の下で、母は落ち着いていた。15歳の長女を、請われて軍属の仕事のため独りマニラに残し、そこに一緒にいた12歳、10歳、7歳、5歳の子供たちに手早く現金、保険証等の入った腹巻をくくりつけて、早く逃げなさい、早く、はやく、と私たちを急き立てた。
 
甲板へと続く細い階段を人々に押されて上りながら、母は、と船倉を見ると、カーキ色の軍の毛布を頭からかぶり、座ったまま両腕に幼い3歳の妹と、赤ちゃんの末っ子の妹をしっかりと抱き、覚悟を決めた顔で、私達が無事に船から脱出できるようにと祈るような、見納めになる我が子たちの顔を胸に刻み付けておくような目で、私達をジーッと見ていた。

私はその時の母の瞼を一生忘れないだろう。私達を無言で追う、母の祈りの目がそこにあった。慈愛のこもった憂いと祈りの混じり合った、母の目だった。
 
水しぶきに濡れた甲板は、恐怖に怯える女性と子供たちで溢れていた。荒れ狂う海の近くで上がる水煙は魚雷を受けて沈没する護衛船からで、兵隊さんがロープの梯子を海に投げ込んで私達を急がせた。

投げ込まれたロープの先には木の葉のように浮かぶ小さな舟が揺れ動いていた。舟はエンジンをかけたまま、二人の兵隊さんがロープの梯子を伝い降りて来る人を待ち受ける。船と舟のあいだの波は呑み込みそうな勢いで唸っていた。一人でも多くの人を助ける人命救助に、兵隊さん達は一生懸命だった。小舟が人で一杯になると、エンジン音も高く波を切り崩す速さで近くの島へと運び、又引き返す救助活動を続けていた。
 
きょうだいが島の波打ち際で揃った。皆、びしょ濡れだった。
母を待つが、この凄まじい魚雷の攻撃では母の存命は考えられない、とも思っていた。
波打ち際にはおびただしい数の遺体がバナナの葉一枚をかぶせられ積み重ねられていた。どの遺体も水膨みずぶくれしていた。
 
茫然ぼうぜんたたずむ私達の前に、両脇に妹二人を挟んで母が現れた。
兵隊さんが二人がかりで母を助け、一番最後の舟に乗り移ることが出来た、と言って私達の無事を喜び、一人一人の頭を撫でてくれた。
 
母はすぐ私達に向かって、「死ぬときはみんな一緒に死にましょう」と言い、日本軍の弾薬の積まれた木箱のそばに座らせ、手を繋ぎ合った私達の頭を一人一人撫でながら、「皆、いい子だった、有難う」と名前を一人一人呼んでくれて、その時を待っていた。
 
海は沈没した7隻の軍艦の余波を受け、荒れ狂うように、怒涛は白い波しぶきを高く上げ、大きな渦を巻いていた。
海上を旋回しては私達の上空を低空で飛ぶアメリカの偵察機は、無人島に用はないと思ったのか、一発の弾丸も落とさず立ち去った。・・・
 
一ヵ月余りか、どのくらいこの島にいたのか記憶にはないが、ある夜、私たち生き残りの婦女子全員が呼び出されて、また乗船を命じられた。

その船の甲板には戦闘帽を被り、背嚢はいのうを背負ったまま黙りこくって座っている、大勢の兵隊さんたちがいた。
私達もそこに、おしくらまんじゅうのように押しこまれて、兵隊さん達と同じように、無言で夜空を見上げていた。

船のエンジン音しか聞こえない中、「お嬢ちゃん抱っこさせてください」と、小さな私は頬に落とされた涙の意味もわからないまま、黙り込んだ兵隊さん達の腕の中をたらい回しにされ、抱かれていた。
その中の一人の兵隊さんが、
「お嬢ちゃん、もし無事に内地に着いたら、そしてもし自分の家族と行き会うようなことがあったら、今夜のこの光景を話して欲しい。私の名前は箱田兵長です。群馬県の、箱田兵長です」
と、二度名前を言うと、又黙して夜空へ顔を向けたままでいた。

月の明かりで見る兵隊さんたちは全員が若く、無表情だった。
日本へ帰ることが出来たなら、と私に託した兵隊さんの言葉は、私の胸に、重く、深く刻まれたが、未だに約束を果たせないままでいる。
 
あの船は激戦地へ向かおうとしていたのだろうか、兵隊さんたちを船に残し、私たち疎開者組は船を下ろされた。
台湾の高雄というところだった。・・・
 
*****
 
伯母の記録では、台湾でもかなり戦火が広がっていて、毎夜空襲警報の鳴り響く日々が続き、疎開団は常に一緒に行動していたが、ある日祖母はパラオからずっと行動を共にしてきたグループを離れ、家族だけで自立して暮らす決心をしたと書いている。
自活のために、台湾でも小学校の教師の職を見つけ働いたが、更に戦局が危険になると、もっと田舎の山間部の村へと避難した。
祖母はそこに住んでいた高砂たかさご族の子供たちにも、請われるままに日本語を教え、伯母たちきょうだいと高砂族の子供たちも、皆仲良くなり、一緒に楽しく遊んでいたそうだ。
 
ところで、この時なぜ祖母が急に自立行動をとったのか、
私はその理由を祖母から直接、「不思議な話」として聞いていた。
 
「おばあちゃんのお母さんが夢枕に立って、そこから逃げなさい、逃げなさい、っておばあちゃんに何度も何度も言ってきたの。だから翌朝、子供たちを連れて、毎晩避難していたその防空壕から出て、その日からはもう別の場所に、うちの家族だけ移動したら・・・・ 
その夜、その防空壕は空襲の直撃を受けてしまい、中に居た人たちは皆、亡くなってしまったの」
 
おばあちゃんのお母さん、私にとっての曾祖母は、祖母が進学を諦めずに勉強を続けられるよう、当時は大正時代の田舎の島に住む、おそらく本人も学歴などない一女性ではあったけれど、そんな時代、そんな境遇でも、夫の考えに盲目的に従うのではなく、自分の考えで、才能があり勉学の意思のある娘に、家出をさせてまで将来への道を開いてあげた。
娘を愛し、心配し、助けようとする母親の想いは、夢の中に現れてまでも、おばあちゃんをこんな風に守ったんだ・・・と感動した。
 
おばあちゃんもすごい女性だけど、おばあちゃんのお母さんも、とても凄い、素晴らしい女性だったんだと思う。

真の偉大さ、聡明さ、賢さは、学歴とは別のところにある。
そのことは私自身も、今までの人生のなかで、はっきりと見て来た。
 

遠くハワイへと嫁いでいく、まだ年若い娘に、出発前、祖母はこう言って勇気づけてくれたと、伯母は教えてくれた。
 
「毎月、満月の夜は、おまえを思って月を見るから、お前も日本の家族を思って月を見てごらん。そうすれば心がひとつになるから、きっと淋しくないよ」


私はいま、祖母に聞きたいことや、話したいことがいっぱいある。
子供の頃は、あたりまえのように、いつまでもずっとそばにいてくれると思ってた・・・
 
懐かしいおばあちゃん、
お盆の夜に、私のところにも、寄ってくれるかな。

テラスでキャンドルを迎え火にして、心の中で、そっと呼んでみよう。 
 
 




*   この記事へいただいたサポートは、書いた文章の一部をインターネットで紹介する許可をくれた伯母へ、渡そうと思います。
伯母は今ハワイで、リウマチなどの病気で、身体が苦しい状態にいますが、きっと良くなってまた日本に行くと言ってくれているので、そのときに渡してあげたいなと思います。

書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡