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くるくる電車旅〈また会いにくるね〉

きみよさんのお墓を訪ねた。

きみよさんは、紫陽花の咲く季節に旅立った。四十九日を過ぎたころ、夫のゴンちゃんからメールが届いた。
『きみよは、大好きだった森のお寺の、プティなお墓に眠っています。ときがあれば会いに行ってやってください』
メールをもらったときは、毎日が猛暑日で、
『涼しくなったら、きっと訪ねます』と、わたしは、返事を送ったのだった。

やっと涼しくなったと思ったら、駆け足で秋は過ぎ去り、冬はもうすぐそこに来ている。わたしは、北風がぴゅうぴゅう吹き出す前に、きみよさんに会いに行こうと思った。

森のお寺は、きみよさんの家の近くの山の上にあった。きみよさんの家は市の東の端にあり、わたしの家は西の端にある。森のお寺がある山まで、地下鉄で一時間の旅だった。

乗って来る客、降りて行く客、目まぐるしく入れ替わる乗客の中で、わたしひとり、すみっこのシートに座り続けた。
十年ぐらい前に、わたしは、きみよさんに連れられて森のお寺に行ったことがあった。ちょうど花まつりの日で、お寺の幼稚園のママたちのバザーが開かれていた。タイやインドネシアの留学生たちが民族の楽器を奏で、幼稚園の子どもたちが走り回っていた。
「ステキなお寺でしょ」
きみよさんは、自慢げにいった。檀家というわけではなく、このお寺がただ好きなのだといった。

まさかあのお寺の霊苑で眠ることになるなんて。あのときは、きみよさんにも思いもよらないことだったろう。夫のゴンちゃんは、熱心なクリスチャンだったから。

町の中心地の駅を過ぎると、乗客は一気に減り、それからは乗って来る人は少なくなる。
わたしたちは、会うとき、いつもこの地下鉄の電車に乗った。きみよさんは東の端の駅から、わたしは西の端の駅から。そして、博物館の近くの駅で降りて、改札口で落ち合った。

博物館では、いろいろなものを見た。エジプトのミイラや、フランス革命のときの断頭台も見た。特別展があるたびに、わたしたちは、博物館へ行っていたのだ。鬼瓦ばかりの展示会や、幽霊の浮世絵を集めた展覧会や、スヌーピーやムーミンの原画展も見たっけ……。
見終えると、お決まりの小さなレストランでお食事をした。お店のママさんがすっかり年取って、娘さんに交代してからも、わたしたちの博物館見学は続いた。コロナで臨時休館になるまでは。きみよさんにガンがみつかったのは、その翌年だった。

レストランで食事をしながら、お葬式やお墓の話をしたこともある。ゴンちゃんがキリスト教徒だから、「ゴンちゃんのお葬式とお墓は、教会でするの?」と、わたしはきいた。きみよさんは、困ったような笑みを浮かべて、「それがね、ゴンちゃんたら、海へ散骨してくれ、墓はいらない、なんていうのよ」と、答えたっけ。そのころはまだ、死は遠くにあって、わたしたちは他人事のように話していた。

電車は、博物館のある駅に着いた。降りて行く人たちを、わたしは座席から見送った。

森のお寺に近い駅は、終点のひとつ前だった。その駅から歩いて8分と、お寺のホームページには書いてあるけれど、それは山の登り口までのことだった。低い山でも山は山。歩いて登れば、その3倍はかかるだろう。
少し登ると、「近道の参道」と書かれた立て札があった。自然林の中の細い道だった。舗装もされておらず落ち葉が積もり、片側は崖だった。野生動物が出て来そうな道だった。もし向こうから人が来たら、わたしは崖じゃないほうに身を寄せるぞ、と身構えて歩いた。

山の上に出ると、蓮池があり、白い石の観音様が立っていた。塀も山門もなく、どこからどこまでが境内か、わからない。ちょっと変わった鳥居のようなものがあり、その下を行くと、大きな鐘撞き堂があった。木造の本堂は、古くて質素だった。自然林の中に、お寺の幼稚園があり、子どもたちの歌う声が聞こえていた。お迎えのママたちが、幼稚園に向かって境内を歩いていた。

わたしは、広くて雑然とした境内を歩き回って、霊苑をみつけた。自然林に囲まれた樹木葬の霊苑だった。つつましい墓碑をひとつひとつ見て回り、きみよさんのお墓をみつけた。表には『○○家』と刻まれていた。裏にまわると、きみよさんの名前とその下にゴンちゃんの名前もあった。きみよさんの名前の横には、きみよさんが同人誌に童話を書いていたときのペンネームも刻まれていた。
ゴンちゃんたら、散骨だの墓はいらないだのといっていたくせに、やっぱりきみよさんといっしょがいいんじゃない。

久しぶりだね、会いに来たよ。わたしは、お墓の前にしゃがみ、手を合わせた。
今日は、手ぶらで来ちゃった。こんどくるときは、お花をもってくるよ。

また会いにくるね。
わたしは、細い近道ではなく、広い参道を歩いて山を下り、地下鉄の東の端の駅から電車に乗って西の端の駅に向かった。

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