人生に必要なのは、仏教の教えと家計管理かもしれない
「禅僧が教える 心がラクになる生き方」著・南直哉
「苦しくて切ないすべての人たちへ」という本を読んで、南直哉さんを知り、違う本も読んでみたくて、図書館でこちらを借りてきました。
最初に読んだ本もそうでしたが、この方の言葉、字面だけ見たら、なんとも夢がない。
「生きる意味は見つけなくていい」
「夢や希望はなくたっていい」
「生きがいややりがいを作る必要はまったくない」
世の中、「やりたいことの見つけ方」とか、夢や希望を持つことの大事さを書いた本があふれているというのに、一見真逆のことを言われてる。
ああ、なんて夢がないんだろう。
しょっぱなから、「自分を大切にすること」をやめなさいと言われますから。
どーゆーこと?
そもそも「自分」とは何か、と考えるとき、それは自分自身の「記憶」と「他人からの承認」だけで成り立っている。
たとえば明日の朝起きて、今までの記憶がすべてなくなっていたとしたら、今私が考えている「自分」は存在しない。
あるいは、明日周りの人がすべて、私のことを別人のAさんだと言い出したら、どうなるだろうか。
どんなに違うんだと言い張っても、他人から「自分」として認めてもらえない。
頭おかしくなりそうですよね。
そのくらい、「自分」というものはもろいものであると。
そんな不確かな自分というものに、意味など元からない。
そんな不確かな自分というものの上に成り立つ生きがいなど必要ない。
そういうことなのかなと思います。
じゃあ、どうすんのよ、生まれてきた意味がないなんて、つらすぎる、どうやって生きてきゃいいんだよ、って思うと思うんだけど、
その通りで、お釈迦様は「一切皆苦」と説かれたように、この世の中すべては「苦」なんですよ。
つらい、苦しい、せつないのがデフォルト。
そのつらさ、苦しさ、せつなさを抱えたまま、それをどうにかしようとするのではなく、「人のため」と考えてみる。
人間は、たまたま生まれてきただけで、別に意味なんてないんだから、「自分が、自分が」と考えない。
「自分のため」ではなく、「人のため」と考える。
だって、自分が「自分」であると認識できてるのは、他人からそう認められてるおかげですから。
わたしたちは、人とのかかわりの中でしか生きていけないものなんです。
なんか、この間読んだ「嫌われる勇気」アドラー心理学の「他者貢献」という言葉を思い出しました。
なにも自分を殺して、犠牲にして他人に貢献せよ、というのではなく、たとえば落ちているゴミを拾うだけでもいいんです。
こんなことすると、誰かが喜んでくれるかなと思って、何かをする。
アドラー心理学では、何かをして、それが役立っていると思うだけでもいいとありました。
自己満足でもいいみたい(笑)
そうすることで、「自分」を認めることができる。
昔よく言われた、「一日一善」ですね。
夢や希望、生きがいを持つなということでもありません。
それを叶えて、幸せな時間を過ごすことができれば、それに越したことはありません。
ただ、夢が叶えられなかったから、生きがいが見つけられないから、自分はダメ人間なのかというと、そうじゃないということ。
そんな人たちのために、仏教があるんですよ、と直哉さんはおっしゃいます。
そういえば私は、大谷翔平よりも、大谷翔平になれなかった人の方に、心動かされます。
夢が叶わなかった、挫折した、それでもまた、違う道を見つけて生きていく。
違う道を見つけられなかったとしても、踏ん張って生きていく。
そんな人たちに共通しているのは、「この人がいたから頑張れた」という言葉のような気がします。
やっぱり人はみな、ひとりでは生きていけないものなんだな~。
(なんか昔、こんな歌あったな)
でもでもね、「他人のため」って考えるの、自分に余裕がないとなかなかできそうにない。
明日食べるお米もない人に、「他人のため」に考えなさいと言っても、「るせー、説教より飯を食わせろ」ってなりそうな気がする。
そんなに裕福でなくても、最小限のお金って必要じゃないですか?
だからあんまりムダ遣いしないで、ちゃんと家計を管理するのってすごい大事だと思う。
お坊さまの本読んで、ちょっと世俗的なこと考えてしまった私、それでもいいよね。