トゥルクの夏
季節の巡りを感じるとき、
そこには祝福と空虚がともに存在している。
季節への祝福は、
人が自然と生きている証であり、
過ぎし時間への空虚、
それはノスタルジーである。
ふと、思い出したトゥルクの夏。
それは、たしかに夏であった。
夏の風が、吹いていた。
ヘルシンキと比べると、トゥルクの街はずいぶんと明るく、鮮やかに感じられた。地理的にも歴史的にもふたつの街には違いがあるのだから、その新鮮さはある意味当然とも言えるけれど、この街は、なんだか明るかった。
「トゥルクがあるのになぜパリに行くのか?」
フィンランドには、こんな言葉があるらしい。
霞がかった2年前の記憶を辿ると、たしかにそうである(かもしれない)と思う。木陰のカフェは暑さを凌ぐ人びとで賑わい、街の中心には大きな川が流れている。エッフェル塔はないけれど、大聖堂も、美術館も、城もある。
するどい日差しが街に降りそそぐ。
ガラス越しの風景は、やさしくそよぐ。
波にゆられて、ワンダーランド。
過ぎ去った日々。
写真のなかに残り続けるだれかの夏、わたしの夏。
過ぎし時間への空虚、
それはノスタルジー。
季節はまた、巡る。
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