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子を弔うことは難しくて

noteを3ヶ月近くお休みしていました。
るりの1周忌と、生きていたら19歳になっていた誕生日がやってきて…苦しかった。心が乱れ、どう考えたらいいのか全くわからなくて。書けませんでした。

弔いって、供養ってなんだろう。ずっと、つらつらと考えてきました。供養と検索すれば、1周忌には親しい人を集めて法要をしましょうと出てきます。でも私はるりが「精霊」になってしまったことにまだ違和感があって、受け入れ難くて。法要も新盆も、何の儀式もしたくありませんでした。

なんで法要なんだよ。私はるりの19歳の誕生日を祝って、大学生活の話を聞かせてもらって、ああきれいなお姉さんになったなあと目を細めて、一緒に成人式の着物を選びたかったのに。

こんな気持ちを抑えるだけでも大変なのに、ましてやその代わりにすることが死者に対する儀式だなんて、憂鬱すぎます。

それに、決められた儀式をすれば本当に供養したことになるんだろうか。私自身も意味がわからないことをして、るりは喜ぶんだろうか。るりが私にしてほしいことって何なんだろう…。

考えて考えて、私なりの「供養」をいくつかすることにしました。

1)花火を見てるりを想う。
花火って元々、死者の鎮魂の意味合いがあるらしいです。周りの観客たちはきれいーって楽しんでいましたが、私はバーンと勢いよく咲いてパッと散った花火を見て、まるでるりの儚い命みたいだなと嗚咽しました。私の情緒が千々に乱れましたが、るりのことを強く想うことができました。

2)「るり生誕記念かわいい祭り」の開催。
19歳の誕生日には、キャラ弁みたいなかわいいご飯を作ってお供えしました。るりは、かわいい絵や工作、料理が抜群に得意でした。一方、私はセンスも遊び心もないので、写真の通り、出来栄えはかなりお手本と違うものになってしまったけれど(これは一応、すみっコぐらしのペンギンのロールキャベツです)…。「へえ、ママがこんなものに挑戦するとは!なんかちょっと不細工だけど、かわいいよ」って、るりなら笑ってくれた気がします。

3)双極性障害の医療ケアについて考える。
るりは、双極性障害で受けられる最高レベルの医療やケアをすべて受け、患者としては恵まれていました。それなのに自死を防げなかった。それはしょうがなかったと諦めるべきなのか?少しでも現状の医療ケア体制を改善できないのだろうか?私は今、この病気に苦しめられながら何とか生きている患者やその家族に対して、何かできることはないんだろうか。

とってもしんどいけれど、何らかの形でこの問題に向き合っていくことが、るりの弔いにもなる、と思うようになりました。このブログでも細く長く、思うところを綴っていければと思います。

子どもを弔うことはとても難しいです。子どもを死なせてしまったことを悔いて悔いて、これから一生、るりのことを心に抱きながら生きていきます。


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