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異端の心でまっとうに生きていく | 『石垣りん詩集 宇宙の片隅で』 石垣りん
こんなにも生々しさと凛々しさがあるものなのか。
それが、石垣りんさんの詩に抱いた気持ちです。
人間が人間としてどこでどう生きるのか、いや、あなたはあなたとしてどこでどう生きますか、と問われている気がするからでしょうか。
詩という言の葉に、自分のすべき役割を全うする覚悟、また、自分という存在をどこか客観視していた著者の心をのせ、私たちのもとへとゆったりと、こうして確実に運ばれてきたのです。
みなさんは、生きていく覚悟はできていますか。
石垣りんさんのそんな声が、今にも聞こえてきそうです。
初日が昇るとき
さあ みんな
用意はいいですか。
新年の幕が上がります。
初日が昇るとき。
空には緞帳が下がっています。
あのはるかな
水平線のところすれすれまで降りていた
古い緞帳が
いま静かに上がって行きます。
一年に一度の幕開きです。
地球は私たちの舞台。
そこに
永遠の中から
時間と空間を切りとって
「日常」というドラマを展開いたします。
人間は人間の装いをして
けだものはけだものの衣をまとって
魚は魚の位置について。
つねに
次の瞬間へとおどり出る。
美しい舞台をつとめましょう。
泣くにしろ
笑うにしろ
見られることは私たちの宿命。
いつもどこかで誰かに見つめられて
誰もいないかと思えば
自分自身に見つめられて。
私は私を生きなければならない。
いのちに課せられた
自分の役割を果たさなければならない。
楽屋に眠っているのは祖先たち。
喝采は未来の方から
すべてが終了したときに。
さあ 行きましょう
光の中へ。
地球は私たちの檜舞台。
一九八三年の幕開きです。
上記の詩が読まれたのは、1983年。
東京ディズニーランドが開園し、大韓航空機爆破事件が起き、マイケル・ジャクソンが「スリラー」を発売し、寺山修司が亡くなった、そんな時代。
なにかがチグハグし、膨張した風船に針が刺されようとしているかのような昭和が終わりに近づく気配、のようなものが感じられます。
大正から平成を生きた石垣さんは、戦前戦後の大きな価値観の変化を目の当たりにし、"自分の思い” を口にすることがままならなかった世の中にあっても、抗えない大きなうねりに迎合するのではなく、自分の心の静かなところをちゃんと見つめ、詩の世界で "自分の思い” を表現し続けてこられました。
自分が自分として在るということ、日々を丁寧に積み重ねながら生きていくということ、そして自分の頭と心とでちゃんと考えるということ、それらの大変さと大切さを、今なお、詩という言葉を通じて私たちに伝えてくれている気がします。
最後に、石垣さんの代表作でもあり、石垣さんの心のあり方や生き様を感じられる詩を。
表札
自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。
自分の寝泊りする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない。
病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様が付いた。
旅館に泊まっても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼場の鑵にはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私がこばめるか?
様も
殿も
付いてはいけない、
自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。
精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。
自分がどこへ向かって進んでいくのか、その選択肢は決して他人にゆだねてはいけないのである。
石垣りん『石垣りん詩集 宇宙の片隅で』(2004)理論社