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絶望は希望になり得るのか | 『悩みはイバラのようにふりそそぐ 山田かまち詩画集』 なだ いなだ(編)

オマエにはまだ、ほとばしる情熱があるのか。

そう問われているような気がして、読み始めるまでになぜかちょっとだけ覚悟、みたいなものが必要だったこの本。
この感覚、なんなんだろうな。

エレキギターの練習中に感電死したとされる、山田かまちという少年。
その時、彼は17歳になったばかりでした。

この本の編者であり作家で精神科医のなだ いなださんによる、山田かまちの残したものに対する真摯で丁寧な編集とその解説を読み、おぼろげにしか認識していなかった彼の生きた断片を知るにつけ、仕舞い込んでいた古いアルバムのホコリを払うような気持ちになり、恐る恐る、その絵や言葉ひとつひとつに触れてみる。

そこにあったのは、精一杯バリアをしているつもりでも、なにもかもが鋭くとがった光線のごとく、そのバリアをすり抜けて肌に突き刺さってくる痛みが収拾つかずに暴れまわった痕跡でした。

覚えがあるはずなのに、ずっと忘れないでいようと思っていたはずなのに、むき出しの心のままではあまりにも生きづらい世の中のシステムに、ぎこちなくも、違和感を抱えたまんま歩幅を合わせたフリをして歩けるようになる。

それは進化なのか退化なのか。

少し長いですが、彼の葛藤や思いが凝縮されているであろう言葉を、省略せずに紹介させていただきます。

アフォリズム的断章

この部屋にとじこもっていてはだめだ。
「この部屋にとじこもっていた時の歌」
ができてしまう。

言葉でいくらすばらしいことを言っても、感じさせることができなくては、何の意味もない。そんな時、言葉というのはただの足でまといになるだけ…。

足を地につけて宇宙を忘れる
誰もがやっている誤りさ……。
地面との距離をはなさないで
体を空間に浸そう

現状でいいと妥協したら、その瞬間から、すべては終わり始める。……そして、自分は、常に、まちがっている。と認識することだ。

自分中心はいいのですが、
自己中心の本当の意味をもっと追求しないと、
他人中心になってしまいます。

すべてが無である状態よりももっと悪いこと
それはしらけた物がそこに  その目の前にある  ことだ。

固定観念。なんていやなものなんだろう。
完全に自由な考え方をしている人って、この世の中に、いったい、いるんだろうか。環境の違いによって、人の考えっていうのは、全然(ほんとうに全然)変わってしまうんだ。
欲望さえも違っちゃうんだからねぇ。

やっぱりぼくは資本主義社会のばかなガキだったんだ。

ひとりで考えろ!
何百年もつき進め! 君の心を満たしてくれる人はどこに…… 君が満たされていればどんな人も君を満たすようになる。心はむずかしく簡単 心は甘く苦い。
だが、どちらをとるかは自由。そして自由になるかも自由。
自由はうそだ。うそのことが自由だ。

すべての音楽をよくきき、まず尊敬し、つぎに見下し、全部奪ってやれ。

夢というのは、時間がめちゃくちゃなのです。
現実というのは時間が完璧に刻まれているのです。
夢は必ず現実の中のどこかに含まれています。だから、夢というのは、それのおこる時刻のわからない現実のことなのです。それは今起こるかもしれず、または1億年の後かもしれない、ということです。

なにかを生み出したい。
それが溢れて溢れてどうしようもない。
けれど、どうにもならない。

そんな苛立ちが揺れ動きながらも、発熱を抑制する思考はものすごく冴えきっている。

それはかつて、宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』の初期形(改稿前)でジョバンニとブルカニロ博士との「ほんとう」をめぐる応答に記していた一節にも似ている気がしたのです。

みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も科学と同じやうになる。

『宮沢賢治』吉本隆明(2010)


『悩みはイバラのようにふりそそぐ』というこの本のタイトルは、かまちが残したと或るデッサンの名から付けられています。

もっともっとと手を伸ばしたその先には絶望さえも希望に変えられる何かがあるはずだと信じること、それはイバラの道をゆくことなのかもしれません。



なだ いなだ(編)『悩みはイバラのようにふりそそぐ 山田かまち詩画集』筑摩書房(1992)


 

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