絶望は希望になり得るのか | 『悩みはイバラのようにふりそそぐ 山田かまち詩画集』 なだ いなだ(編)
オマエにはまだ、ほとばしる情熱があるのか。
そう問われているような気がして、読み始めるまでになぜかちょっとだけ覚悟、みたいなものが必要だったこの本。
この感覚、なんなんだろうな。
エレキギターの練習中に感電死したとされる、山田かまちという少年。
その時、彼は17歳になったばかりでした。
この本の編者であり作家で精神科医のなだ いなださんによる、山田かまちの残したものに対する真摯で丁寧な編集とその解説を読み、おぼろげにしか認識していなかった彼の生きた断片を知るにつけ、仕舞い込んでいた古いアルバムのホコリを払うような気持ちになり、恐る恐る、その絵や言葉ひとつひとつに触れてみる。
そこにあったのは、精一杯バリアをしているつもりでも、なにもかもが鋭くとがった光線のごとく、そのバリアをすり抜けて肌に突き刺さってくる痛みが収拾つかずに暴れまわった痕跡でした。
覚えがあるはずなのに、ずっと忘れないでいようと思っていたはずなのに、むき出しの心のままではあまりにも生きづらい世の中のシステムに、ぎこちなくも、違和感を抱えたまんま歩幅を合わせたフリをして歩けるようになる。
それは進化なのか退化なのか。
少し長いですが、彼の葛藤や思いが凝縮されているであろう言葉を、省略せずに紹介させていただきます。
なにかを生み出したい。
それが溢れて溢れてどうしようもない。
けれど、どうにもならない。
そんな苛立ちが揺れ動きながらも、発熱を抑制する思考はものすごく冴えきっている。
それはかつて、宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』の初期形(改稿前)でジョバンニとブルカニロ博士との「ほんとう」をめぐる応答に記していた一節にも似ている気がしたのです。
『悩みはイバラのようにふりそそぐ』というこの本のタイトルは、かまちが残したと或るデッサンの名から付けられています。
もっともっとと手を伸ばしたその先には絶望さえも希望に変えられる何かがあるはずだと信じること、それはイバラの道をゆくことなのかもしれません。
なだ いなだ(編)『悩みはイバラのようにふりそそぐ 山田かまち詩画集』筑摩書房(1992)