これはもう、恋文 | 『宮沢賢治』 吉本隆明
吉本隆明さんは言うのです。
『言葉でつづった作品にはかならず意味がきっとつきまとって』いると。
だとしたら、宮沢賢治が語る言葉につきまとっているほんとうに伝えたい「意味」とは、いったい何なんだろう。
宮沢賢治の作品を楽しむ醍醐味は、そんなことを考えながら賢治の視線と同化して、自分なりにその答えらしきものを見つけだすことかもしれません。
「らしきもの」と書いたのは、宮沢賢治本人にはやっぱりなれないわけで、でも、少しでも彼が見た世界に触れたくて、それぞれの人の中にそれぞれの宮沢賢治を宿しているのではないか、と思ったりするのです。
いくつもの宮沢賢治作品の中にくり返しあらわれ、生涯をかけて見つけ出そうと、切にその答えを求め続けた証ともとらえられる『ほんたう』という言葉。
そして、文中でたびたび語られる『きっと』という、賢治のことを考え抜いた果てにあるひとつの答えを発見できた吉本隆明さんの喜びが感じられる言葉。
そのふたつの言葉が追いかけっこするみたいに繰り返し記されるこの本は、父や友人に宛てた手紙から、さまざまな作品やそこに現れる故郷・花巻の気配から、特徴的な比喩や擬音から、宮沢賢治が追い求めてあふれ出したものに吉本隆明さんが呼応して、まるで美しい輪唱を奏でているようにも感じられるのです。
あとがきにも書かれていますが、吉本隆明さんにとって宮沢賢治のことだけを考え没頭できる時間は至福の時だったようです。
それにしても人は、どうしてこんなに宮沢賢治に魅せられてしまうのでしょうか。
挙げればきりがないけれど、人が生きていくうえで避けられない「死」と「生」に対峙した際に描かれる賢治の心象風景が、魅力のひとつの要素としてあるように思います。
この世界のあらゆるもの、人も動物も植物も鉱物も、山や海や大地も全てに限りがあり、永遠ではないけれど、死は終わりではなくて循環するものであり、すぐ隣にひっそりと、しかし決して消えることなく在るのだと。
そしてそれは、光と影とか、希望と絶望とか、喜びと哀しみとか、そうした二元論ではなくて、感情のグラデーションを深く濃く映し出している気がします。
心にあらわれる無意識の反応をなかったことにしない賢治の繊細さについて、吉本隆明さんは、こうも記しています。
『敏感の極致のこころの揺れを言葉のピンにとめていることは、宮沢作品の芸術的な本質である』と。
そこであらためて、宮沢賢治が語る言葉につきまとっているほんとうに伝えたい「意味」とは何なんなのかを、賢治の言葉から手繰り寄せてみるのです。
吉本隆明さんの炸裂する考察力とダダ漏れする宮沢賢治愛を感じながら。
吉本隆明『宮沢賢治』(2010)筑摩書房
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