あるべきすがた2

2 スピノザ的汎神論と無限の喜び、愛情

前章最後に出てきた"ヒント"、これを理解するためには鋭く深い直感的理解が必要だ。ところで、直感と論理が対立していると考える人は多いが、実際は少し違う。論理とはそもそも公理、定義を前提とし、その上でその公理や定義をいじっているのだ。よって公理、定義をあるものだと考える、すなわち公理や定義をあるものだと直感的に理解した上でそれらを使ってあそんでいるのだ。具体例を出せば、小学校数学という論理体系は数字の1.2.3.とか四則演算➕➖✖️➗同値を意味する🟰をまず直感的に認識しその上で論理的に2✖️3🟰6とか2➕3🟰5といった演算を行っているのだ。もっとも身近な四則演算さえ直感という土台の上にたっている。まとめると論理というのは直感を前提としており、概念的に直感の下位概念、つまり一部であると考えられる。
 話をもどすと、我々が歴史上ほとんど見つけられなかったヒントを見つけ出すためには狭い論理の中だけでは見つけられない。より広く、深い直感を使わなくてはならない。しかし現代社会では直感の一部である論理しか使わない人が大多数だ。これは後々説明するが、意図的にそのようになっている。おそらくこれを読んでくれる人でも直感的な理解に苦戦するかもしれない。それほど現代人は論理の外側を使っていない。私は正しいことを言うからこうやって厳しい現実もかく。 
 では本題に入る。といっても無名のわたしメキキが本題をいっても説得力を感じない人もいるだろう笑。だからほとんど、かなり同じ内容を思いついた16世紀のオランダの哲学者スピノザの言葉を引用させてもらう。これから伝える言葉はすごく直感的で私は大変共感し、同じ意見である。
万物は神の現れであり、全ての存在の本質は神である。故に私は私、あなた、他の生き物、あるいは生きていないものでも全ての存在は本質的に私と同じもの、つまり神なので、全てを愛することができる。このようにして得られる愛、喜びは人間が体験でき得る最大、最高の感情である』
以上が、"ヒント"の最初に理解されるべき部分であり、世界の本質だ。前半部分の世界は全て神であるということを完璧に示すことはできない。なぜなら完璧な客観は不可能だからだ。我々は自分の認識の上でしか物事を判断、把握できない。私は正しいことをいう。しかし後半部分について、これは美しい。ほんとに美しい。汎神論と呼ばれている。スピノザが生きていた頃、キリスト教的な世界観が必ず正しいと考えられてきた。その世界観とは、簡単に述べるとまず絶対的で無限の力をもつ神がいて、その神が世界を作りその世界の中で生きているは人間は神の被造物なので神に従わないといけない、従わないと消してしまうぞ!  地獄におとすぞ! といった所だ。上記の"ヒント"をもし理解できたならば、このキリスト教的世界観はまったく違うことがわかるだろう。まったく違うどころか完全に逆と考えてもいい。なぜこの考え方が広まっていったのか?そしてなぜ世界中の神話は大体これと同じような内容なのか? 
それは先程もチラッと話したがこれらの宗教観は意図的にに作られたものなのだ。そろそろ陰謀論に聞こえてきたか?わたしメキキは例え陰謀論と言われても正しいものを正しいと言う。間違っているものを間違っていると言う。そう言う覚悟がある。
脱線したがスピノザはこの考えに違和感を覚えた。そしてこのように考えた『神が無限の存在ならば、すなわち有限でないならば、すなわち限りがないならば神と何かを切り離すことは不可能、神と世界を作った側と作られた側にわけることはおかしい。実際は神と世界、つまり万物は等しいはずだ』
以上の汎神論が分かれば"ヒント"の大部分9割9分9厘は理解したといって良い。
だがしかしまだ一厘残っている。その一厘がほかの9割9分9厘を台無しにさせる。いや、台無し所のはなしではない。最近、ほんとにここ数年、多くの人はここまで辿りつつある。めでたいことである。しかしそのほとんどは1厘を詰めれていない。スピリチュアルに興味を持つ人達は増えたが、その多くは恐怖予言に騙されている。恐怖を煽る人たちにまんまと大事なお金をとられている。これはその一厘がつめれていないからだ。
 次章ではこの一厘の罠と人間社会を裏で意図的に操っていたものたちについてかたる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?