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わたしの大好物、それは抽象概念

最近よく見るミニマリズム

最近よく、ミニマリストという単語に触れる機会が多いんですけど、モノがあふれる生活空間を1つのくくりとして、一歩引いたところから見るといった解釈を個人的にはとっています。モノのないお部屋、なんとなく空気が澄んでいて清潔感のあるお部屋をイメージしちゃいたくなります。


サステナブル社会への転換

おそらくは、20世紀中盤から終わり頃にかけて形成されてきた大量生産・大量消費社会からサステナブル社会への転換をはかるためのキーワードとして流行させているものだと認識しております。サステナブル、持続可能なという翻訳を一般的に当てますが、どうやら限りある有限な地球資源を節約しましょうってことらしいです。政府レベルというか、全世界的に実施されている政策です。生産−消費活動は資本主義の柱となるもの。拡大再生産こそ社会発展の原点だと経済学の教科書にも明記してあります。

つまりは、資本主義経済の転換期でもあるということです。これから先にどのような未来が待っているのでしょうか。

消費経済の根本である物欲

資本主義経済というものは、消費者による消費行動を前提とするものなのですが、その根本に物欲というものがあります。「〇〇が欲しい」「△△も欲しい」といった欲望がなければ資本主義経済は成立しません。経済学の教科書の1ページ目にある欲望人の哲学です。

物欲のないわたし

子供の頃から物欲にとぼしいわたしにとって、モノを買う習慣というものを持ち合わせてないんです。お洋服にも関心がないし、何かのグッズを集めるといったこともないし。そんなわたしの部屋にモノがあふれるわけもないし、ミニマリズムとは無縁かも。

なんてつぶやいてみても、部屋を見渡せば歩くスペースを確保するのも難しいくらい非常にごちゃごちゃしてますwww

その正体は、何を隠そう本です。書物の山があたかも自生林のごとく空間を占拠しているのです。あふれかえった本棚を筆頭に、本を収納した箱がいくつも積み重なっているし、そこからもはみ出した本たちがむき出しで積み上げられています!そりゃ、家族からも嫌がられますよね。

知識欲の肥大化

物欲がとぼしいかわりに知識欲が肥大化してしまっているんです。思い起こせば、小学生の頃から学校の図書室に通い詰め、中学高校の頃には、街の図書館や古本屋さんに足を向かわせていたものです。活字中毒といいますか、本の虫といいますか、とにかく本を読むことにしか生きがいを感じることができなかったんです。 

同級生たちが、マンガだのゲームだの恋愛・オシャレ等々にハマっていく様を端からながめながら、人とはちょっと違う自分の姿を客観視することもありました。

右向け右を民族性の基盤におく日本社会において、いわゆる異端者と呼ばれるような立ち位置は非常につらいものです。悲しみを味わうのみです。

渦巻く概念

それでもなお、わたしは本を読み続けたのです。なぜか。頭の中に概念が渦巻くからです。

ぐるぐるぐるぐる、グルグルグルグル

音を立てて渦巻くのです。無限に続く螺旋階段と言った方がいいでしょうか。わたしは、その階段をひたすらに上り続けるのです。暗くて暗くてとっても暗いその空間に一本のランタンを持って、ただひたすらに上り続けるのです。

観念世界に住するとはこのことを指すのでしょうか。
三度の飯より抽象概念が好きって叫んだらダメなのでしょうか?

象牙の塔の崩壊

昔はよく、象牙の塔という言葉が用いられていました。現実世界から隔離された知的探求の場、といった意味合いでしょうか。一般的には大学のことを指すのですが、わたしが大学に行った時にはすでに就職予備校と化していました。東大生ですらクイズ番組に出る時代ですから、もはや死語に近いのかもしれません。

確かに今の学問では、世の中を救済することは不可能に近いでしょうね。人々を欣喜雀躍させる理論は到底登場する見込みはないかもしれません。だからこそ古典や名著にすがりつくのですが、もちろん、それでは歴史は動きません。骨董品と同じでただのお飾りにすぎません。実用性はまったくのゼロです。

今の文学でも同じです。娯楽作品ばかりがはびこり、時代を写し出し、未来を形成するような、そんな大作はもはや世に出ないのかもしれません。そりゃ、ミュージシャンがノーベル文学賞を受賞する時代ですもの。

象牙の塔はすでに過去のもの。タロットカードの中にある塔・towerのカードのように、崩壊してしまっているんですね。そういう時代に生きているんです。

読書に何を求めるか

悲しいかな。哀しいかな。わたしは書物に何を見出そうとしているのか。書物にまみえてきたわたしの人生は一体何だったのでしょうか?

あふれかえった本の山に埋もれながら、実用性と教養の差異に悶え苦しむ日々です。

実用性とは

ここに実用性とありますが役に立つという意味です。具体的には、冒頭に述べましたサステナブルを抱合する資本主義経済の発展拡大に役に立つかどうかが判断の基準になります。

教養主義とは

これに対して、教養主義という言葉が流行ったことがありました。ほとんどの場合、頭に大正か戦後という単語をかぶせることが多いです。外患内憂が比較的少なかったいわゆる安定期に見られます。

教養主義という単語には複数の意味が付与されます。社会人として最低限の知識を保有する場合もあれば、人格形成に必要な学問を修めることを指す場合もあれば、学問上古典を重視する考え方を示す場合など様々です。

少なくとも、いわゆる知識階級の人たちに一定の権威を与える言葉であることには違いありません。

教養不要論

ではありますが、70年代以降、教養および教養主義という言葉はあまり重視されない傾向が見られます。いわゆる教養不要論です。以降昭和末期から平成令和と続く流れの中で研究機関としての大学の権威は衰微の一途をたどります。もはや社会を動かす力はいわゆる知識人の中には見出せないことでしょう。

しかし、それでもわたしは本を読み続けます。
なぜなら抽象概念が好きだから。
実学を否定するわけではないのだけれども、しかし具体論や実学だけで世の中が動くとはとても考えられないのです。

抽象の復権

では、どうすれば抽象に価値を復権させることができるのでしょうか。答えはひとつです。人々の心を動かし、社会や歴史を動かすことです。

しかし抽象は非常に難しいのです。アートで言えばピカソの絵こそそれであり、名作、傑作と言われながらもほとんどの人が理解できていない実情があります。

いわんや抽象的文章をやです。わたしは大好きなのですが、いかんせんこのメリットを伝えるのは非常に難しいのです。

抽象概念の可能性を信じて

この閉塞の時代に抽象概念からこそ新しい時代は生まれえると信じています。
社会の上(或いは近しい外部)に象牙の塔を形成するべきだと考えています。大学が厳しいならSNS上でもいいかもしれません。
アウトプットを繰り返しながら、限界に挑戦していきたいと思います。



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