夢みて考える
武田砂鉄が『別に怒ってない』のなかで「昨日見た夢の話と旅行の話って、聞かされてる方としてはさほど面白くない」なんてちょっとした警鐘を鳴らしていたが、今回はその戒めを破って夢の話をしたいと思う。もっと頻繁に更新したいのに、現時点ではちょっとネタ切れ中だという事情もあって。
体調が悪いときや眠りが浅いときに悪夢を見るひとは沢山いると思う。わたしも一時期悪夢ばかり見ていて、その経験から「内容に関わらず、夢を覚えてない方が幸せだ」と思うようになった。
夢からの目醒め方としてはたとえば、こんなのが理想的だ。
夢がソフトクリーム状のものだとする。
床から起き上がった瞬間にそのソフトクリームは溶け始める。そこで無理に受け止めようとしてはいけない。ただ溶けるのにまかせる。
…この程度の夢なら、体に響くほどのインパクトもなく日中の行動も辛くならない。寝た実感も得られると思う。
さて、先日また悪夢を見た。しかも二夜連続。
夢のひとつにはスパークスのロン・メイルが出てきた。彼が夢に出てきたのは多分、寝る直前にスパークス来日の写真をみて「ライブ行った人たちいいなあ」と思ったのが頭に残っていたせいだと思う。
具体的には、ロンが見覚えのあるような日本の街中の曲がり角で立っていて、(いろいろ説明を飛ばすと)そこの横断歩道の向こうには「駒沢区」という茶色のテープで組み合わせて貼ったような、粗い作りの看板があった。ちなみに横断歩道のこちら側は新宿であるという“認識”があった。書いてあるわけではなく、私はその時それを知っていて、支離滅裂だとわかってもいた。でもまだ縮尺は自然だったし、不快じゃなかった。
しかしそのあとは、何も脈絡なく赤やピンクがふんだんに使われた屋台が立ち並ぶエリアにいた。道自体が狭いし、ピンク色の布が市場いっぱい頭上に渡されていて、夢のなかながらひどく圧迫感を覚えて不快さを感じた。
その後の夢の詳細は割愛するが、それもまたもう、めちゃくちゃだった。縮尺がどう考えてもおかしいのに、ちぐはぐなそれらが両立していた夢。
起きる頃には体が疲れていた。
きっと専門家がたくさん研究していることだろうけど、ああいう支離滅裂さは一体どうやって成り立つのだろう。
わたしはフロイト的な夢分析はそんなに当てにしていないので、それ以外の道を探しながら自分なりに考えてみることにした。
睡眠中に脳が老廃物を処理するという話は聞いたことがある。
だとしても、
・見たことのあるもの
・行ったことがありそうな場所
・見たことのないもの
・その他もろもろ
それぞれが役割を持ち、組み合わさりながら機能している状況というのはよく考えれば不思議ではないか?また、実際には動いていない体が夢の中で移動して、その先に何かを見るということもよく考えれば妙なことである。たとえば「走る」「歩く」といった行為は実体を伴わなくても、脳がそれを知っていれば再現することができるということになるのだから。
うーん、脳ってほんとうに不思議。なんでなんだ。小学生になりすまして「子ども科学電話相談」に電話したい。
あと、わたしの感覚としては夢って「見える」というのとは違うんだよなあ…。感情や感覚が伴うから、「見える」というよりは「そこにいて体験する」の方が近いかもしれない。
映画やドラマなんかでの夢の多くはセリフや言葉の奇妙さでそれらしさを演出していることが多いけど、わたしが共感できるタイプの夢の表象はパッと思いつく範囲だと、今敏の『パプリカ』や黒澤明の『夢』あたりか。(作り手本人としては、どのくらい忠実に再現できたように感じるのだろう?)
しかし、基本的にキャメラの動きでは夢の感じは出し得ない。きっと他人の夢を見る技術が発達したとしても、本人が夢を作り出しながら経験するものとは全く別個のものになるのではないだろうか。足りないのは夢に付随する私自身の感覚だ。
「映像を見る」という場合、見る側と映し出される映像は主体と客体の関係性にある。しかし、夢では“映し出されるもの”も、ほかならぬ私自身から生まれた何かだ。VRとも違う。言うなれば、脳の機能によってお互いが呼応し合う擬似リアルのようなもの。
そう考えると、「私」と分離していながらその一部が間違いなく「私」のもの、分身的なものであることこそが、夢の本質かもしれない。
単なる願望の映し絵としての役目を果たすこともあろうが、ほとんどの場合「私」と「私」に飲み込まれた万物の距離の中に夢は作り上げられるとすれば…。
こんな愚にもつかないことを、新発見でもしたような気持ちで考えていた。
夏だから少しくらいボンヤリしててもいいでしょ!
クールダウンと水分補給をお忘れなくお過ごし下さい。
それではまた、ごきげんよう。
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