【小説】ヒマする美容師の副業#2 クルマ乗っ取り魔女(後編)
あたしは何がしたいのかわからなくなっている。見知らぬ人のクルマに乗りこむなんてどうかしてた。幸い大事には至らなかったけど、さすがに末期的症状だと認めよう。そのうち、とんでもないことをしでかすのではないかと本気で自分のことが怖くなった。どうにかしなければ……
Life is beautifulという名前の美容室で髪を切ってもらっている。なんでこんなところに座っているのだろうとも思うけれど、特にやりたいことのないあたしとしては他人が敷いてくれたレールに乗っかるのはヒマつぶしにはなる。このあいだのヘンテコリンな女はいなかったけど鏡に映るサーファーっぽい男の美容師をよくよく眺めると、ま、まさかの……
「どうかしましたか?」
美容師が微笑みかけている。
「いやなんでもないですけど……あの、お名前うかがってもよろしいですか?」
「伊藤ですが、どうかしましたか?」
「すみません、知っている人にあまりにもよく似ているものですから。あの、それって本名ですよね」
「もしかして実は偽名なんですって言ったら俺がその男になってしまうって話ですか? ゲームっぽくて悪くない。どうです? 自分で確かめてはどうですか? 本物か偽物なのかを」
まさかあたし以上におかしなやつにつかまるとは。だけど、ほとんど思考停止状態だった脳にスイッチが入ったのは確かだ。何に対しても関心を持てなかったのに、もしも目の前の美容師があの男だったらという妄想でアタマは膨らみ始めている。
宙ぶらりんだったあたしに新たな命題ができた。鏡に映る男が、死んだと聞かされているあの男かどうかを確かめる作業だ。そのためには鏡に映る男を知ることから始めなくては。あたしは少しだけワクワクしていた。長い間持てなかった人への関心が復活しかけている。どうやらこの世界に戻ってきたらしい。鏡に映る美容師を凝視していることがあからさまにならないように気を付けているつもりだけど、どう見ても同じ顔をしているのでつい見つめてしまう。長い間探し求めてきた顔がそこにある。
「どう証明しても偽物の可能性がある限り、あなたは自分で判断するしかない。俺が何者かはあなたが決めるのです」と男は言った。
あたしはアタマの中でああでもない、こうでもないと同じところを行ったり来たりする生活にほとほと飽きていた。本当はいいかげん新しい世界を生きたいと思っていたに違いない。機は熟していた。
「あなたの申し出をお受けすることにします。でも、どうしてそういうことをしたがるの?」
「さあ、なんでだろうね。俺、ヒマしているのかな。夜が明ければサーフィンして働く生活は気に入っているのだけど、ちょっとした変化が欲しくなったとか。そんなに深く考えられても困るかな。俺、テキトーなんで」
「あたし、ホントいうとゼツボー的に弱ってたから一命とりとめた気分よ。ありがとう」
クルマ乗っ取り魔女は笑いながら店を出ると少しだけスキップをした。あれ、どこかで見たような。そうだ、水ねだり魔女もスキップをしていた。ついでだから俺も表に出てスキップをしようと思った。
次回へ続く。
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