見出し画像

ラスコーリニコフみたいな僕

最近、『罪と罰』を読んだ。
地元に帰って、春の訪れをほんのり待っている間の生活を、とりあえずこの一冊に預けようと思ったのである。

僕は、ラスコーリニコフに似ている。
彼があの事件のきっかけを持っている段階に、おそらく、今、僕はいるんじゃないだろうか。
顔色も、心臓の鼓動も変えないで、いつかとんでもないことをやってしまうんじゃないだろうかと、危うさを自身に感じる。

さっき、電話越しで店長に、バイトをやめる連絡をした。
いつかやめたいとは思っていたが、まさかこんなに早く片が付くとは思っていなかった。
まるで一瞬の出来事であった。

ぼくが店長に退職を願い出た経緯はこうだ。
実家に帰っている僕は、数週間の休みを得て、自由気ままな生活を体験する。
本に耽って、木漏れ日を感じ、夕方を惜しむ。
ざっというとこんな生活。
そうすると、現実に引き戻されるのが怖くなって、徐々に現実に縛られている自分を嫌いになる。
ちらと、バイトをやめるという思い付きが姿を現すと、それに縋り付いて、必死に粘着する。
その思考を過大評価するならばストーカーである。
そのストーカー行為が永遠と続いていくと、不思議なことに、まるでバイトをやめることが確定的に決定された事柄となるのだ。
そうなれば、刹那の出来事で、終わった思い出を、もう一度たどるような心持で、時間どおりに実行する。
その結果がこうなった。
単純にこうなった。
こうなるしかなかった。
優しく指導してくれた店長に、申し訳ないなと思う気持ちが、後味をすっきりとはさせなかったけれど、僕はそれを振り切らないといけないと思った。
血の気の薄い顔をして、一切の顔色を窺わないで、生活する。
ある時が、「あの時」が来るのを、無我夢中で待つ。
そんな人間であらなければならないのである。
僕はラスコーリニコフが踏む超えた一線を、突き抜け、次に行くために。
そのような思いが、反省の思いを示した自分を、腹立たしくさせてしようがなかった。

ちなみに、辞退の理由は、きまって精神の不調である。

ラスコーリニコフみたいだなと思うと同時に、
僕は、ラスコーリニコフにあこがれているのかなとも思う。

精神の不調は、ここから、本格的に始まり、
僕を、表現に駆り立てる。
ふんわりとそんな想像をするが、おそらくそうなっていくのだろうと確信している。

この後に訪れる激動の変化に、僕は恐怖に蹴落とされないように、しっかりと信念にしがみつく。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?