高校受験の上位層あるある?(ぼやき)
興味深い記事を読んだ。
いや〜リアルだな〜という感想である。筆者も中学校で一番にはなれなかったクチである。定期テストでは10番〜20番くらいだったし、受験シーズンになって模試を受けたときも二番止まりだった。筆者となにかと似ているYouTuberのコバショーも一番ではなかったらしい。ただ別の見方をすると、自分が1位を取れる環境=レベルが低すぎる環境とも言えるので、意外にアポカリプスでないことのほうが重要なのかもしれない。筆者の持論だが、上位10%辺りにいられる環境が一番パフォーマンスが良いと思う。東大受験で言えば東大進学率が10%〜30%位の学校が一番合格しやすいのではないか。
高校受験組と中学受験組はだいぶ子供時代のアイデンティティは異なると思う。筆者が小学生の時代は遊んでばかりだった。塾には通っていたが、土曜だけだったので、大した負担ではなかった。公文式に通っていたこともあるが、早々にドロップアウトした。ただ、筆者はあまり外遊びが好きではなく、小学校の時は本ばかり読んでいた気がする。筆者はよく物知りだと言われるが、このときの体験が大きく影響しているのかもしれない。
高校受験もそこまで苦労しなかった。やはりレベルの低さが原因だろう。中学受験向けの模試を受けた時は偏差値50台だったが、駿台模試で偏差値70を切ったことは一度も無かったと思う。志望校向け模試では基本一桁だった。ただハードに勉強していたわけではなく、高校受験向けの塾に通い始めたのは中3の秋で、実質的な受験生の期間は4ヶ月半くらいだったことになる。当時はずいぶん長かったように思えるが、今から思うと一瞬である。更に驚いたのは高校受験の偏差値と一般にされるものが駿台模試ではなく、遥かにレベルの低い模試のことだったことである。駿台模試で偏差値50の学校が偏差値70として扱われていた。高校受験のレベルはどうなっているんだ。中学受験の偏差値50は高校受験の偏差値70くらいではないかと思う。もちろん大学受験ではこうはいかなかった。一桁なんて夢のまた夢である。
中学受験組の話を聞いていると、あまりにも勉強強度が違っていて、驚くことが多い。ライターを使って勉強するとか、骨折するとか、明らかにヤバそうな話も聞いたことがある。受験勉強も小4からヨーイドンとのことだ。中学受験のほうが東大受験よりもハードという話もよく聞く。筆者は中3の夏までは普通の中学生をやっていたので、かなりギャップが大きい。正直、同じ学校に通っているのが申し訳ないくらいである。この原体験の違いは思われている以上に人格形成に影響を与えているような気がする。なんというか、中学受験組のほうが性格がきつく、エリート意識が強いのだ。
一方、記事中でも触れられているように、高校受験組は周囲のレベルの低さによって勘違いしやすいという印象もある。特に地方だと露骨である。地方公立中で一番だったタイプは、結構な割合で大学受験で挫折するので、独特の学歴コンプを抱きがちである。この系統は結構ネット上の学歴談義でも存在感があり、独特のオーラを放っている。レベルの低い環境で一番を取った経験は、必ずしもプラスとは限らない。ただ、地方公立出身の友人を見ていると、特に挫折しないタイプもおり、人によるという感じだろうか。むしろ首都圏の富裕層とのギャップに挫折することが多いのだが、これはどちらかというとブルジョアエリート的な要素である。地方公立から東大に来たようなタイプはメリトクラシーに染まっているので、開成等にお坊ちゃま学校のような劣等感を抱きがちだが、本質からズレているような気がする。
ところで、人間考察などの話をしていて思っていたのは、中学受験組と高校受験組は結構アイデンティティが違うなという点である。
中学受験組の場合、勉強がハードすぎて小学校高学年の思い出は勉強一色であることが多いし、同級生との関係も幼すぎて確立できていない印象だ。勉強に関しても、言葉は悪いが親からの押しつけという点はどうしても拭えない。やはり自我が確立されていないので、親主導の受験となる。幼い時から競争社会の厳しさを刷り込まれ、気がついたら進学校に入っているわけである。
高校受験組の場合、中学校はどちらかというと何者でもない原風景のような状態である。その中で勉強が得意というアイデンティティが形成され、モテへの興味などもあって受験への意欲が湧いてくる。筆者は模試で一桁に入ればモテるという間違った思い込みによって突き動かされてきたところが大きい。高校以降は自分の学力に応じた選抜された集団に入っていく。ここで地元の友達とは違った世界に入っていくことになり、アイデンティティがまた確立されていくイメージだ。漫画等を読んでいても、この感覚は結構共通ではないかと思う。一番人生で仲の良い友達は高校の同級生ということが多い。初めて自分で選んだ環境で出会う仲間ということだろう。
中学校の人間関係は将来の役に立たない人脈ではあるが、自分の社会での立ち位置を把握する、アイデンティティの基礎ではあると思う。大体みんなそうなのではないか。地方公立から来た同級生も大体似たような感覚だった。勉強がハードではないこともあって、中学校はそれなりに社会生活という実感はあるが、その後の人生においては役に立たない関係でもある。むしろ社会の縮図を見学したという感覚ではないか。
筆者の人間考察の原点は中学校なのだが、筆者の記事を多くの人間に読んでもらえていることを考えると、結構妥当なラインなのではないかと思う。スクールカーストや同調圧力など、普通の中学生が経験しがちなものを筆者も経験し、一般社会の感覚を身につけることができた。ラノベ等に登場する「中学校時代の同級生」の感覚もよく分かる。筆者の周囲を見ても、人間観察に異様に長けている人間は全員が高校受験組だ。
ところで、筆者が入った高校は中高一貫校だった。引用元の記事でも書かれているように、この場合は人脈形成はあまりうまくいかないことが多い。中学受験組の同級生は「同期」ではないからだ。学歴系YouTuberを見ていても、高校受験組が中学受験組のインナーサークルに入っていくのはかなり難しい印象だ。筆者は卒業してから付き合える高校の同級生は一人二人しかいない。天才集団に普通の人が間借りしていたという感覚だった。在学中も高校受験の塾が同じだった友達とつるんで終わってしまった。その友達は東大理三に入ったので、才能はあったのかもしれないが、だからといってギフテッド集団の相互尊重の輪に入れるわけではなさそうだった。「無キャ」という表現は結構的を射ていると思う。高校時代の筆者は内部生の内輪ネタに付き合わされるよりも、科学五輪で他校の生徒と交流していたほうが圧倒的に楽しかった。
このあたりはJTC転職組のアイデンティティの話とも近いのかもしれない。転職した友人を見ていると、同じ転職組繋がりや、前職の友人などがいて、人間関係の幅は狭くなさそうだ。一方、同年代のプロパーはむしろ最も付き合いにくい存在とのことである。プロパー集団の場合、インナーサークルに外部の人間が入ってくると裏切られたような気分になって怒る人もいる。この手の競争から距離を置く必要性は高いと思う。
ところで、この手の話をするたびに思い出すのが乃木坂46の二期生である。あの立ち位置は結構ノンプロパーの辛さに近いところがあるので、筆者としては興味深かった。どさくさに紛れて一期生の中に入るタイプ(新内眞衣・伊藤かりん)、薄っすらと嫌われるタイプ(堀未央奈)、二期同士でつるみたがるタイプ(堀未央奈・北野日奈子・相楽伊織)、一期と仲良くしていたけど卒業してから続かないタイプ(鈴木絢音・伊藤純奈)、外部で看板を振りかざすタイプ(山崎伶奈)などである。特に新内眞衣や伊藤かりんはノンプロパーの人間がインナーサークルに入っていく上でどうすべきかを考える材料になった。逆に堀未央奈はあまり好ましくないやり方である。また、ノンプロパー的な要素を持ちながら、そのことが完全に解消された秋元真夏のような例もある。当初は西野七瀬に無視されるなど、辛い思いもしたのだが、持ち前のコミュ力と笑顔で最終的にはキャプテンとして皆に慕われる人気メンバーになった。また、同じ二期でも欅坂46や日向坂46はまた違った展開を見せた。乃木坂46の話をすると止まらなくなってしまうのでやめておこう。
プロパーとノンプロパーの違いについてはかなり綿密な考察を行ったので、どこかで書くかもしれない。