数学に触れると独我論はウソだと確信する
学生時代の話になるが、飲み屋で友人と酔い潰れていて、哲学談義になったことがある。友人は独我論の信奉者だった。自分以外の他者が存在しているという確証はないし、突き詰めればどうでもいいことだから、サイコパスこそが最も合理的で優秀な人間なのではないか、という話である。私はこの主張に論理の上では納得したものの、素朴な違和感は拭えなかった。もとよりこの手の議論は反証不可能であるため、合っているか間違っているかの問題というよりは信じるか信じないかの問題になる。結局は「素朴な確信」を持てるかという問題になる。
私は独我論をあまり信じていない。確かに自分以外の人間が存在しないのではないか、という疑問を持ったことは多いのだが、やはり他者が存在するという確信を捨てることはできない。他者の存在を認知するにはどうすれば良いだろうか。
もし自分の生きている世界が自分という存在の妄想で構成されていれば、周囲に存在するものは全て私の想像力から生み出されたものになる。超高層ビルとか、火山の噴火というものは全て私が想像できる物体であるため、何もおかしいところはない。架空世界の世界地図や固有の生き物を想像することだって造作もない事だ。ところが、私の想像力で絶対に生み出せないものがある。それが数学だ。自分一人で生きていたとして、絶対に微分積分や複素平面を思いつくことはできない。自分よりも頭のいい誰かが考えてくれたとしか思えないのである。
妄想で生まれた友人が自分を褒めてくれることはあっても、妄想で生まれた友人が線形代数を教えてくれることはない。妄想という存在はあくまで自分の頭脳と知識の及ぶ範囲内でしか構築できないからだ。妄想で生まれた友達が剣と魔法の世界について説明してくれることはあっても、自分の解けない数学の問題について教えてくれることはないだろう。これは現実と妄想を見分ける1つの手段になるのではないかと思うのである。
独我論と似たような仮説として「水槽の中の脳」があるが、こちらの方は独我論よりも懐疑の度合いが弱いと考えている。自分が水槽の中の脳であったとしても、他者の存在はいくらでも観念できるからだ。良く挙げられるマトリックスという映画があるが、仮想世界の中にはいくらでも他者は存在した。きっと自分が水槽の中の脳であっても、他者から線形代数を教わることは可能だと思う。やはり独我論の方が仮定の荒唐無稽さは強い。
もし独我論が正しいとすれば、自分は神なのだと思う。自分自身が世界を創造した唯一神ということだ。ただ、その場合は自らの創造した世界に神ですら理解できない数学が存在することは違和感がある。高等数学の存在で独我論が反証される訳では無いが、「素朴な確信」を揺るがす1つの材料にはなり得ると思う。世界には自分が自力では解けない問題や、到底理解の及ばない数学的問題が存在する。そして、それらをいとも簡単に解き明かしてしまう天才がいる。彼らの存在を知覚できるということは、やっぱり私は唯一の存在ではないのだ。この世界の大部分は自分の妄想が作り出した存在かもしれないが、それでもどこかに他者はきっと存在する。眼の前の物質はウソかもしれないが、アイデアはウソではない。この世のどこかに絶対に他者は存在するはずだ。
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