キルンベルガーは純正和音のために独自音律を考案したのか? (読書感想文、『純正作曲の技法』)

純正作曲の技法、東川清一訳、春秋社の読書感想文的な。まだ全部読んでないけど。スーパー個人の感想ですので注意。

 キルンベルガー音律はキルンベルガーの純正和音への強い志向を表す音律とよく言われますが、どうもそれはすこし違うのではないかという感じがします。というのも平均律について、以下のような文章があるためです(段落が続いていること、または省略を……で示しておきます。[]は訳者の注です)。

……すなわち彼らはオクターヴを、それぞれがほぼ半音にあたる12の小音程に等分割したのである……しかも多くの人はすぐさま、この調整律は非常に有利であるとみたのであった。それというのも、これによると、クロマティック音階をなすどの弦[音]もみな、自分自身の4度、5度、および6度ばかりか、自分自身の長3度や短3度までも、完全な純正律からのずれが耳では聞き分けられないほど純正律の近くに調律されるようになるからである。

キルンベルガー『純正作曲の技法』15ページ、東川清一訳、春秋社

 このことから平均律をキルンベルガーが否定していたのは、平均律と純正との乖離がはなはだしいからではない、ということがわかります。むしろそういう観点では、平均律を評価しているのです。ではなぜ平均律を否定するかと言えば、平均律を正確に調律することは不可能なこと、また全てを均一にすることによって純正律由来の凸凹がなくなり、従って(キルンベルガーが自然で、歴史的に使用されてきたと考えていた類の)各旋法調ごとの違いが消えてしまうことについて、憂慮していたようです。
 ここからはより感想なところですが、前者の”正確に調律できない”は???なところではあり、なぜならば全ての五度を少しずつ狭める平均律は当時も実施されていて、相当に受け入れられていたからです。このことはキルンベルガー自身『多くの人はすぐさま、この調整律は非常に有利であるとみたのであった。』と書いていること、また次の記述や、

……しかし多くの人びとが要求するように、平均的調整律[普通にいう平均律]を導入するならば……

キルンベルガー『純正作曲の技法』312ページ、東川清一訳、春秋社

またこの書籍の後に発表されたTürkのクラヴィーア奏法の記述などから明らかです。

参考:
ヨーロッパ地域ごとの各音律の需要について(音律史について自分で調べたことのまとめ-2)
https://note.com/lucid_hornet1502/n/n6d1ec824db81

平均律の歴史的位置 坂崎 紀

https://mvsica.sakura.ne.jp/eki/ekiinfo/HPET.pdf

解釈は微妙ですが、キルンベルガーには下手な人が調律する平均律(かそれにとても近い音律)の微妙なばらつきが耳障りだった、ということかもしれません。これはキルンベルガーが提唱する音律についての以下の文章からも読み取れるかもしれません。

……これは、調律の経験があまり無い人にもほとんど難しいことはない。そしてこの調整律は、調律がしやすいという理由から、とくに推奨されるのである。

キルンベルガー『純正作曲の技法』19ページ、東川清一訳、春秋社


 後者についても、割と個人の感想的なところがあるように思われ、こうした純正律に強く依拠した演奏法が歴史的な事実として受け入れられるかどうかは、どうなのだろうなと思いました。
Just intonation in the Renaissance

16世紀と17世紀の旋法

こういう動画を見る限り、また様々な音律の歴史的事実を見る限り、キルンベルガーが主張しているような純正律に基づいた旋法が果たしてどれだけ実際に使用されたかは何とも言えないのではないかとも思います。
 キルンベルガー音律がJSバッハ音律かについては、私は違うのではないかと個人的には思います。キルンベルガー音律はあまりに特徴的な音律なので、バッハが使用していたのならば何らかの証言が出るのではないかと思いますが、CPEbachやキルンベルガーから聞いたマルプルグの証言など(前の投稿を参照)、周りの音律表現はむしろ逆であり、キルンベルガー自身も(私の知る限り)これがバッハの音律とは述べていません。キルンベルガーの音律発表後もテュルクを含め(私の知る限り)、当時の人はこれがバッハの音律であったとは述べていません。しかしそれにも関わらず、当時のバッハの弟子がバッハの精神を表現できる音律としてこうした再現性の比較的高い音律を提唱したという事実は、完全に無視できるものではないとは思います。

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