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自分の"幸せ"よりも、"人の幸せ"を優先するということ。

人生で最も大切なことは、自分が幸せであることだと考えている。

人に優しくすること、仕事や勉強を頑張ること、大切な人を見つけること、健康、人との関わり、お金など大切なことはたくさんあるが、その中でも、可能な限り自分が幸せでいることが最もシンプルで、生きる上での根底にあたるところだと思う。自分が幸せで心が平穏であると、他人にも幸せを波及させることができる。

10代の頃に生きる意味について悩んだことがあり、その頃から(選べるのなら)できるだけ自分が幸せになれそうな選択を取ることにしてきた。

情報に溢れていて、先行きが不安で。そんな中で、自分が一番信じられるのは、自分の幸せだった。

今、辛くてやりたくないことでも、それによって、そのうち、あるいは数年後の自分がより幸せになれるだろうから頑張ろう。

様々な選択肢の中で迷った時は、自分が選べるものの中で、最も自分が幸せになれそうな選択をとろう。

このようにして、基本的には自分が幸せでいることを最重要の判断基準としてきた。

自分の中に価値判断の基準を持つことは、悪くないものだ。人生の中で迷うこと、悩むことが大幅に減り、生きるのがラクになった

悩みというのは、悩みの原因が分からないことが一番の悩みだ。したがって、解決することが相当難しい。そこで、とりあえずその時に自分が最も幸せになれるだろうと思った決断をすると、一旦前に進むことができるし、後悔も少ない、と思う。

このようにして、僕は「人生で一番大事なことは、自分が幸せでいることだ」という考えを固めてきた。時代や文化、文脈、状況、心の動きによって柔軟に自分の考えを変えることが大切だと思う一方で、これだけは、いかなる場合でも揺るがない矜持だった。

(これを僕は逸脱不可能性と呼んでいる。国際人権法で人権について国が守らなければならない様々な事項が定められている。多くの人権は、戦争状態にある時など必要最小限の範囲で制限されうることがある。その中で拷問禁止、奴隷の禁止などはどんな場合でも逸脱が許されないものとされる。僕にとって自分が幸せであるということはこの逸脱不可能なものに当たる。)

自分が幸せでいることが逸脱不可能なものだとしたら、自分の幸せとバッティングする場合には他人の幸せを優先することができない。(バッティングしなければできるだけ人に優しくありたいと思うけれど。)

だから、タイトルの行動を自分はあまりとれていないし、とれなくてもいいやと考えていた。

でも、最近この考えが若干揺らぎ始めてきた。自分の利害とは一切関係なく、完全に人のために行動できる人を見て、かっこいいと思った。世の中には色々な不安、悩みがあるのに、何故かそれを忘れてしまう。人を見つめ、幸福にすることができる人は素敵だ。自分の幸せを大前提とする考え方を、変えざるを得ないかもしれない、と思い始めている。



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