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『エッセイのまち』の仲間で作る共同運営マガジン

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#書くこと

短歌を針と糸で刺繍してもらいました。

はやいもので、今年になってからもう三週間近く経ってしまったのですね。 ちゃっちゃとなんでもこなせないままこんな年になってしまったので、今年もたぶんスローな散歩みたいな感じで歩いて行きたいと思ってます。 去年、noteで出会ったうわの空さんと、はじめた 「糸で綴ることばのお店。」にわたしの短歌を 刺繍してもらいました。 綴った短歌が、糸でひと針ずつ言葉の形に 形作られるって考えてみたらほんとうに 刺激的です。 すらすらと鉛筆で文字を書いたりするのとは ちがって。 刺繍

あたらしい服を買うということ。

久しぶりのnoteを書いている。 気持ちはここにあるのに なかなか書けていなかった。 最近夜の映画が楽しすぎて 幸せな夜更かしをしてしまうせいだ。 登場人物はおとなの恋人同士のふたり だけなのに。 まるで高校生みたいなのだ。 いつも舞台は違う。 彼らはただ話しているだけなのに とても幸せそうで楽しそうで。 わたしは勝手に3人目の登場人物になった 気分でいつも見ている。 幸せのおすそ分けをもらっている。 いつかその映画のことをくわしく 書いてみたい。 この間久しぶり

誰かと、出会うということ。

点と点はいつか線になるっていう言葉は馴染みすぎたぐらいのきらいがあるけれど。 時折、点は点にすぎないのだけど。線につながることもあって。 そう感じたくなる経験も数年に何度かは訪れてくれることがある。 一度出会って今は出会わなくなってしまった人は時々記憶の中の登場人物となって、お茶碗を洗っている水に触れている時やシャンプーしている時など、不意に現れては消えてゆく。 消えてゆくのだけど。 またいつか泡のように記憶が再生する。 10月のはじまり。  不甲斐ない想いをしていた時

今日も仲良くなれますように。

食べるという行為はほんとうに不思議だ。 ファミレスのハンバーグランチだって 時には一口一口がじぶんの心に快速急行 ぐらいの速さで効いてくる時がある。 わたしは今、そのことを実感している。 大好きな友人ゆうのうえんさんが毎日畑を 耕しながら作ってくれたお野菜を食べている。 2年前の11月。 彼女がマルシェをしているというので訪れた。 こんな野菜たちが不定期じゃなくて 定期的に我が家にくるとうれしいなって 思っていたら。 彼女が野菜を各家庭に配達するビジネスを 始めたことを

言葉はどこからやってきて、どこへゆくんだろう。

この間、ふるい喫茶店で話をしながら。 文章を書く時どんな感じで言葉が 手元にやってくる? みたいな話になっていた。 言葉ってみなさんどこからやって 来るんだろう。 どこで決断してその言葉を選択しようと どんな働きがあって、その言葉を獲得しているのかみたいなことに興味がある。 わたしは短歌をはじめた頃から 言葉はなにも浮かばない。 映像で頭に浮かんでしまう。 浮かんだ映像が頭にあるので、それを こんどは逆に言葉に翻訳している。 そんなふうに答えたような気がする。 最近

夏へ短い手紙を書くとしたなら。

春も秋も冬も。 気がつくと季節はそこにいて。 皮膚感覚として好きとか嫌いとか 色々言ってしまうのが人だけど。 この夏はほんとうに嫌われていて。 わたしもたしかに嫌っていた。 でも夏が終わると思うとどこか 心寂しくなってしまうのは 恒例の気持ちのグラデーションだけど。 いろいろあったね。 この夏、わたしは人に出会うのが楽しくて しかたなかった。 むかし引きこもっていたわたしにも 教えてあげたいぐらいだ。 母の介護らしきものが生活のなかに 馴染んでやっと四カ月半。 母

しあわせなピリオドと、はじまりと。

①はじめて夏バテみたいなものを経験して。 体調というものは簡単に崩れてしまう ものなんだなって思っていたら、もう9月に いつのまにかなっていて。 その間にお知らせしなければいけなかった ことなどごてごてになってしまっていました。 去年の11月にイラストレーターのイシノアサミさんと ご一緒した絵本、「どこかでだれかが」が BASEにてようやっと完売いたしました。 ゆっくりやっていきましょうねってふたりで 約束していたので、ほんとうに最後の一冊が 在庫としてゼロになったとお

「安全な場所に居続けてください」、もうひとつの意味。

もうひとつまえの台風が、やってくるとテレビのニュース 番組でアナウンスされていた時に、耳に止まったのが このフレーズだった。 安全な場所に居続けてください。 もちろんこれは災害に向けての命を守るための文言だし。 この文章の意味以上の意味はないのだけど。 わたしはすぐに思った。 ほんとうに、そうしたいと。そうありたいと。 Xとかを柄にもなくはじめてみたのが二年前だった けれど。 やり始めてみると、やたら内省するようになっていた。 内省し始めると、わたしのメンタルは

大人びた気持ちを夏の栞にして。

時間が後戻りしたような純喫茶店にわたしたちはいた。 むかしの昭和の家庭にあったような、ひものついた 電球がふたりの客席の頭上にあって。 そのひもは引っ張ってはいけないのですよといわん ばかりに、くるんとその半円級の丸みにそって ちょんと上の方にしまわれていた。 その駅に着いた時から街はにぎやかで。 阿波踊りが催されることになっているお知らせや ブース、出店などが通りに沿って設置されていた。 店内の窓側の席。 すこしくすんだ曇りの日にみるような曇ったガラス 窓の下には浴

あやまちに馴染みたい、夜だった。

罪とは言わないまでも、その場所に居る人に とってはちょっとした心地よくないことを してしまうことってある。 どうしてそんなふるまいをしてしまったん だろうって、忸怩たる思いに駆られる こともある。 じくじたるってほんとうに凹んできそうに、 重たい漢字だな。 ほんとうは全然違うことを書こうと思って いたけど。 この間、大好きな作家の方がもうこの世には いらっしゃらないお知らせをTwitterで 知って。 あの話に出会いたいと㏚誌「花椿」をめくっていた。 <過ち>につ

家族は作るんじゃなくて、なってゆくもの。その間にはいつも「おいしいごはん」があった。(創作大賞感想)

年齢を重ねると、じぶんが育ってきた 「家族」って如実に輪郭をあらわにしてくる。 ああわたしはこの「家族」の一員になることが最初から決められていたのだな。 あんなにぶつかりあったのに、 ふしぎなことよ。 みたいに思うことがよくあって。 若い時は「家族」がうっとうしかったし。 ひとりになりたいねんっていつも思ってた。 いつもその時に考えているのはじぶんの「心」であり、「気持ち」であり、これからどうしようでも笑っていたい楽して暮らしていたいという甘えた想いだったような気がす

AI画像と文章がゆるぎなく一対一で向き合っている。(#創作大賞感想)

いつもわたしは少し不思議になる。 みんな言葉をどんなふうに読んでいるんだろうと。 わたしは癖なのか、小説の言葉を目で追っている とき、そこには脳内でビジュアルを変換させながら 読んでいる。 ゆえに、わりと描写のこまかい作品がすきだったりする。 書く時も然り。 書く時は頭の中にある映像を言葉に翻訳している。 そういう経験をはじめてしたのは『マディソン郡の橋』 だった。 とつぜん読むスピードで映像がわたしのなかに立ち上がって きて、今脳の中で何が起こっているのかとす

真夏の図書館お散歩、行ってきました。

そのお店のことは、誰にも言っちゃいけないよって言われてるみたいに佇んでいるお店っていうものが街のどこかにあると、もうわたしはその街を好きになっている。 そして記憶の中にずっと住まわせて。いつか行ってみるんだ、いつかあの扉を開けてみるんだって思いながら日々を過ごす。 世知辛いこともあまたあるような日々の中で、そういう、場所が記憶のひきだしにはいっていると思うだけでちょっと日常が楽しくなるし。 「いつか」という希望がほんとうに「いつか」叶うような気がしてうれしくなる。 そ

人生のおしまいのこと、気になっていたこと。

時折、おわりのことを考える。 たとえば、いつまで書いているのかなとか。 ちゃんと最後まで走れるのかな? とか。 おしまいがどれになるのかわからないから それは知らないまま繋いでゆくしかない のだけれど。 センチな気持ちじゃなくて、どっちかというと興味本位かもしれない。 じぶんにさして興味があるほうじゃないけど。 おしまいのことはそれなりに気になる。 そんな思いで居た時、はじめはなんのき なしにみはじめたドラマにはまっていた。 予定外にはまるってことある。 好きに