若松英輔『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会、2015年)を読んで。
本書『叡知の詩学』は『神秘の夜の旅』に続く越知保夫論である。前著は、越知保夫の見出したものを井筒俊彦や小林秀雄、そして越知保夫の師である吉満義彦を共時的に読み解くことを通して浮き彫りにするものであった。それに対し本書は、越知保夫の見出したものを著者自らが引き受けて小林秀雄と井筒俊彦を手掛かりに深めようとするものである。前者においては越知保夫その人を見出すことが企図されているのに対して、後者においては越知保夫が起点となり越知保夫に連なることを目指しているのである。それが書名に一切越知保夫の名前が書かれていないにもかかわらず越知保夫論であると書く理由である。
前著が書き手としての著者のはじまりを告げる書であるとすれば、本書は著者のある到達点を告げる書であると思う。結論めいたことを書くつもりではなく、ただ他書にはない主題の凝集が見られることを指摘したいのである。評伝ともエッセイとも違う『霊性の哲学』に連なるような思考の凝集がそこには見られ、一見平易な主題の移り行きの中に何かふつうの思考には収まり切れないものを読者は感じるであろう。それはあるいは『死者との対話』や『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』で語られた死者論の展開と言えるのかもしれない。生ける死者である越知保夫との対話が結実したのが本書であると評者は思うのである。
本書は読み了わらない本である。小林秀雄、井筒俊彦、柳田國男といった人々そして越知保夫は、彼らの言葉を読んで何か結論めいたことを説くことを拒む書き手である。それぞれの書き手の限界の思考に立ち尽くすような思いを繰り返すことを通して、その主題への理解の手掛かりが与えられ、そこから彼らが読んだ古典、例えばダンテでありリルケであり老子である彼らの古典を自ら引き受けた後に別の地平に立たされる。このことの繰り返しを通して彼らの見出したものへと一歩一歩近づいていくことを余儀なくされるのである。それは単に学問的な理解や通説とは異なるものであるかもしれないが確かな出会いと呼べるものであろう。彼らが見出したものを見る、それは私たちの生のありさまをまったく変えてしまうものであるかもしれない。そのことは吉満義彦の言葉を借りれば実感性という言葉に表現されるであろう。私たちが実在と出会うということは、見得なかったものが見えることであり、生きることの変容を伴う体験なのである。
それほど大分な書物ではないにもかかわらず評者にとっては若松氏の著作の中で読むのに最も骨の折れる本書は、繰り返し手に取り、読み進め、実在の問いを深めさせる本なのである。