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破天荒な親を持った熱血ママが「過剰」から楽になれたワケ


「普通」に憧れた子ども時代


それが、私が熱血ママになったルーツだったと気づいたのは、樹木希林さんと内田裕也さんを両親に持つ内田也哉子さんのインタビュー記事を読んだのがきっかけでした。


人からは「よくグレなかったね」と言われますが、グレている両親を見ていたので(笑)
ああはなりたくないという気持ちが自制心を生んだのでしょう。

内田也哉子さんインタビュー記事抜粋

「もうグレさせてもらえないぐらい、私は自由という名の責任を早くから母から授けられてしまって」と苦笑。


もう、本当そう。也哉子さん、まさに私の子ども時代の思考そのものを代弁してくれてます。



実際に私が可愛げがない大人びた子どもだったこともあって、4歳とか5歳で大人の話を聞いてある程度の理解もできていました。


自分のことを子どもだと思ってなくて、コナンくんの灰原さんばりに中身は大人の感覚だった割に、



「うちのお父さんが心配性で…」
「お母さんがうるさいから…」


そんな話を友達から聞く度に、普通の親子っぽくていいなと思っている「普通」からは縁遠い子ども時代を送っていました。



父が言うことと言えば、


「1度きりの人生なんだから、好きなことやれ」
「グレても大丈夫だからな!」
「運が回って来たぞ〜!」
「良いアイデア思いついた!一山当てるぞ!」
「しょうがない、しょうがない」(大体自分のこと)


なぜか、グレてもいいと許可しまくる。笑


私にグレて何の得があるのかわからないし、親がそれを大丈夫と肯定するのも意味がわからない。


私の性格の裏をかく作戦だったらどれだけいいだろうか…と父がそれを言う度に、まともに取り合うのも疲れて呆れるのみ。


「警察にだって、いくらでも迎えに行くから心配するなよ!」って父は本気で言っていたからです。



私にその兆候があったならわかるけど、毎日部活に忙しくしている娘に力説する親の心理。謎すぎる…。


当然「なんで?それ、私に言ってんだよね?」ってなりますよ。私の何を見て言ってんだ?節穴にも程があるだろう?と。

数年後、その理由が判明しました。
高校に入学早々、金髪にして来たヤンキーくんと隣りの席になってしまい、やばい、何を話せばいいんだ?と考えていたら、

「ね、チャックさんの娘でしょ?」と彼から普通に話しかけてくれたのです。


え、ちょっと待って。なんで父親知ってるん?



さっきまでの緊張感が一瞬で消えて、どうして中学も違うよく知らない男子が父を知っているのか?を前のめりに聞いていました。


「チャック」は高校時代の父のあだ名で、昔からの地元の友人はみんなチャックと呼んでいました。その子ども達にはチャックさんと呼ばれ、私たちはチャックの娘と呼ばれていたのです。


お口にチャックってぐらいにお喋り野郎だったからなのか、チャックを閉め忘れすぎだったのかは、わかりません。



幼いながらにどっちかだろうと思っていたせいか、由来は聞いたかもしれないけど覚えてません。笑


前のめりに聞いた真相は、父の親友の子どもが中学生でちょっとやんちゃになって、その頃に連んでいたのがクラスメイトの彼でした。


父は親友の家に顔を出しては「お前ら悪さしてんじゃねーぞ!」と子ども達にちょっかいを出しに行っていた様子。


「チャックさん、面白いよね!」と笑う彼に、実の親だと大概だから。笑えるのは外野だけだから!と私も笑って会話ができました。


まさかの父が共通の話題で。笑


あぁ、あの頃の「お前がグレても、俺は味方だから安心しろ!」はこれだったのか。と理解しました。


そんな父は、私たち子どもにも寛容だったけれど、娘が2人いるシングルファザーである自分に対してもそうだったので、突然の引越しや転職も1度や2度じゃありませんでした。


「子ども達を路頭に迷わせるリスクまでちゃんと考えて、やろうとしてるんか?!大丈夫なの?!」と小学生の私に怒られてばかりでしたが、たしかに生き方としては面白い人だった!!


父の「大丈夫!大丈夫!心配するな!!」ほど不安で心配になる言葉もなかったけど。考え方も行動力も突き抜けていたのは間違いないです。

その旨みをようやく感じられるようになったのは、私が高校生ぐらいになってからでした。



1歳半から通ったインターナショナルスクールに希林さんが来たことは一度もなかったといい、「母は英語ができないので学校の通信簿も全部自分で読んで親のサインを真似していた。それが許されたおおらかな時代だった」


小中高と公立に通いましたが、私も父に通知表にサインを書いてもらうのが大変でした。


子どもの通知表をいち早く見たいのが親心かと思うのですが、父は成績自体への興味関心が薄く、私が言わないと開かないし、見ましたのサインもペンを持たせてようやくでした。


高学年になってからは、ちょっと大きめな字で父の名前をそれっぽく雑に書いて出してました。(それっぽいが雑って…笑)



本当、おおらかな時代でしたね。
実は也哉子さんは学年は1つ上だけど、私と誕生日が3ヶ月違い。チームドラゴン(辰年)だったと知って、同じ時代を破天荒の波に翻弄されていた親近感がすごいんです!!笑


そんな当時の父の口癖が

「東大を出たからって社会で成功するかは別の話」
「頭の良さは学力では測れない」
「お前は頭がいいから、勉強ができなくてもいい」


父が頭がいい人と言うのは、決まってビートたけしさんでした。お笑いだけじゃなくて映画監督までやれちゃうんだからそれに異論なし。

でも、子どもに「頭がいいんだから、学校の勉強はできなくてもいい」と言う親は、私の周りにはいませんでした。


普通なら「頭がいいのだから、勉強すれば良い成績が取れるよ」となる流れです。勉強ができなくてもいいって言い切る必要あったんか?笑


実際、私はテスト勉強をせずに平均点でした。
なぜか、「勉強をしないで平均点」に自己肯定感を上げていました。



私はやらなくても平均以下じゃないから頭いいんだなって発想が、もう頭良くないですけども…。


その後、学生時代に勉強をしなかった自分を盛大に後悔しつつも、留学をしてからは必死で勉強することができたのは、父の「お前は頭がいい」があったからかも。そこは、ありがとう。


幼い頃から離れて暮らしていた母も、普通とか常識に左右されずに完全に自分基準の人でした。



「普通、母親は子どものためを思ったら離婚を我慢するもの」
という声が多勢だった時代に


私が不幸な理由を子どものせいにしたくなかった。
それって、子どもに私の人生の責任を取らせるってことでしょ?あなたのために犠牲になったのよ!って、親に言われたら嫌じゃない?


母からそう言われた時には「たしかに!それ言われてたらすごい嫌だった」ってものすごく納得しちゃったんですよね。


母親なら、子どものために我慢するものって周囲の声を信じてしまうと、母は私たちのために我慢してくれなかったんだって思ってしまうけれど、当事者としてどっちを選ぶかって聞かれたら、迷わずに母の選択に1票でした。


そこから、人の話を聞いて子ども心に傷つくことが激減しました。


「お母さんいなくて可哀想」って言われても、母は自分の意見が1番正しいと思ってるから、一緒に住んだら大変だった。と内心思っていたのもあって、実は電話でたまに話すぐらいが適度な距離感なのは理解されなくてもいっか。と。


父と妹との3人家族は、父がお調子者だったから暗さも湿っぽさもなかったし、そこそこ楽しくやってることも理解されなくてもいっか。となってからは、父とも母とも親子仲が良くなりました。


でも、「それ」と「これ」とは別の話だった!


大人になっても、自由なことを逆手に取れるようになった後も、私の中には子どもの頃の「普通」への憧れはそのまま綺麗に残っていたのです。


門限もないし、小さいときからすべて責任は私に与えられてたから、本当に自由でした。

でも、自由という言葉から連想されるのは、窮屈でしかなかった。

他の子どもたちがお母さんから「何時に帰ってきなさい」、「こういうとこは行っちゃだめです」と制約を受けるのが、羨ましくて仕方なかった。

それが愛に見えたんですよね。私には誰も言ってくれる人がいなくて、自分で決めるしかなかった。

私は過剰なんです。自分がしてもらえなかったことを、自分の淋しさを埋めるためにやってしまっているという俯瞰の目もある。自己嫌悪しながらも言い過ぎちゃったり、やり過ぎちゃったりします。


この也哉子さんの言葉に、ああ、そうか。
私は自分が両親にして欲しかったことを、子ども達にすることで、自分の中の空白のパズルを埋めているんだなと全身で「腑」に落ちて行きました。


私が、どんなに熱く「こうなりたいから、これが必要」と父にプレゼンをしても、「俺がやるわけじゃないから、いつまでに幾ら必要かだけ教えろ」って全く親身に聞いてくれなかったことが不満でした。


私はこんなにやる気なのに!親ならもっと思うことがあるでしょうよ?!って、聞いてない父を座らせて、最後までちゃんと聞け!と言いたいことは毎回言いましたけども、不満でした。(この構図がもう普通の親子じゃないんよ…)


今思うと、父にアドバイスをして欲しかったのとも違って、自分事として聞いて欲しかっただけなのだと思います。


父に意見を押し付けられてウザいと思ったことが無かったから、それもわからなかった。
親らしくない戯言がウザいはあったけど。笑


私が子ども時代に必要だったことなのだから、娘にも必要だと当たり前のように信じ込めたのです。


「破天荒な親」じゃなくても、心配性、無関心、過干渉、どんな親子関係だったとしても、子ども時代の自分からは、親になったら避けて通れないし、もうそういうものなのだと受け入れてしまう方が自然です。


どう足掻いても、自分の親と同じように、もしくは真逆のように、子どもだった当時に存在があっても無くても影響しているのだから。

なぜ、自分はこう考えてしまうのか?こうやってしまうのか?が私のように理由がしっくり来たら、納得ができます。

子ども時代の「普通への憧れ」が正体だったのか!!と解明されたら、ゲシュタルト崩壊のように、今までの子どもの悩み自体が悩みだったのかわからなくなる感覚になりました。

子どものことを「こうやって励ましたかった」だけだったり、「こうやってあげたかった」だけだったりに見えて来て、子どものためじゃなくて「そう思っていた昔の自分のため」だったに行き着いてしまったから。

逆にそう思えてからじゃないと、子どものためにできることが何なのか?がわからないのも仕方ないのかもしれません。

「子ども=昔の自分」だったら、いつまでも我が子が望むものは理解できないし、ギャップができてしまうのも納得です。


私が也哉子さんのインタビュー記事で腑に落ちたことは、「破天荒な親」の共通点があったからですが、その度合いは全然別格です。


樹木希林さんの強さは父には皆無だったし、破天荒と言っても「同音異義語」ぐらい全く別の次元の話なのですが、腑に落ちるキッカケは意外とあちこちにあるんだな。を実感しています。


そしてちょっと悔しいことに、当時の父のバイタリティには感服しているのです。


小さい子どもがいても、見切り発車で良いと思えばどんどんチャレンジできたことは、誰にでもできることじゃないし、どう失敗しようが「俺は生まれてくるのが早過ぎた。時代が俺についてこれない」って結論に至れる思考は幸せ脳だったと思います。


そして、あんなに不満だった父のあり方に子育ての正解を見出す日が来るなんて、小学生の私が聞いても信じないと思います。

子どもがどう転ぼうが、大丈夫だ。心配するな!!って言えちゃう捉え方。私の子どもへの淡い期待が安くて陳腐に思えてしまう。完敗です。


私の両親は、娘がまだ幼い時に亡くなってしまったので、子育てに翻弄されていた頃の私が両親と会話ができていたら、力を抜くタイミングがもっと前にあったかもしれません。


母は私に、家庭と子どもに気持ちを向けすぎていると言っていました。それは子どもにとっても負担になる。
家庭はもう耕したんだから、今度はどうやって自分が人の役に立てるかを考えたほうがいい、と──。


この樹木希林さんの言葉を、「でも、だって」と言わずにスッと受け入れてみる。


今までの自分のあり方は、空白だったパズルを埋めることができた。それでいいじゃないか。

最高じゃないか。


子どもの頃の心がぎゅーっとなった記憶が、その時のこうだったらいいのになって思いが、今の自分の子育ての考え方とやり方そのものに繋がっていた。


これは嫌だった!という気持ちが強くても、それしか方法を知らないから自分の子どもに繰り返してしまう場合もあるかもしれない。


こうやって記事を読んだり、動画を見たり、何かしらヒントを求めているからこのnoteを読んでいる。それ自体がお子さんへの愛情です。


やり方が違ってたかもって気付けたら、その時変わればいいんです。ああそうか、これは昔の自分が欲しかったやつ、苦しかったやつかってことがわかれば、手放すのも怖くなくなります。


夜道にコンビニ袋が浮いてたら、幽霊だと思うと怖いけど、なんだ袋じゃんってなったら、もう怖い気持ちは持てなくなる。あれと同じです。


子どもが自主的に楽しいからスポーツをする、勉強をする、そんな未来に近づく1歩が「なんでこんなに不安なのか?」「なぜ、やらせないとダメだとこんなに確信できるのか?」を自分の中で掘り下げて考えてみることが入り口です。



私の普通への憧れはものすごく強かったし、理想が正解じゃない可能性を考えたこともなかったけれど、「この子は大丈夫!って思えるのは親だから」って思考の方がいいよな、と途中で変えました。



もう娘の子育てが終わり、閉店ガラガラ、蛍の光が流れるタイミングで、変わることを選びました。


おせーよ!!



そんなタイミングでも、変わらなかったことを後悔するより100倍良かったんです。


娘に嫌われる覚悟で厳しいことを言ってきた結果が報われなかったから、余計に後悔をして、何のための過程かを見誤っていたことを受け入れたのです。


子どもに対して「できると思うから言うんだよ」の場面で、本当にできると思うから言っていたか?


これ、私は、言ったらできると思うから言っていたんですよね。子どもが自分からはできないと思っていたから言っていたんです。


本当にできると思ってたら言わない。


それを子どもは知ってるから、あーできると思ってないから言うんだなって伝わる。そういうことだったんです。


私自身が無意識に隠してた本心、バレてました。


思考のクセは、気づくと元通りになるように脳が造られているので、何度でも修正しながら「当たり前」が変わっていくのを待てばいいんです。


3日坊主をずっと続けたら継続です。
休みながらでも、戻りながらでも、続けてしまえばこっちのもの!と種明かしがされてますから。


だから「今から、子どもをフィルターなしで見てみよう!」そう思えたら、確実に変化の1歩です。


最後に。也哉子さん、あの頃の気持ちを的確な言葉にしてくれてありがとうございます。



いつか、どこかでお会いして30分でもお話ができたら嬉しくて、お茶でも上機嫌で酔えちゃいます!!
本当は、もう一軒行きましょうよってぐらい語り尽くしたい。もう、勝手に同士の気分ですから!笑



「子ども=昔の自分」だったに気付いたら、
これを読んで想像力を発揮してみてください↓↓


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