没男のショートコント⑧【また逢う日まで】
ある夏、息子が彼女を捕まえてきた。彼女は立派な角をしたカブトムシで、虫カゴの中でじっとしていた。
私の中の彼女は20歳、学生時代の姿で止まっていた。私たちは若いなりに深く愛し合っていたし、なんなら死ぬまで一緒にいるつもりでいた。熱に浮かされていた。当時は。
彼女は車に轢かれて死んだ。子どもを庇って吹っ飛ばされた。彼女らしいと思った。誰もが彼女を英雄視した。
私は助かった子どもの手前、悲しもうにも悲しめなかった。ただ、ポツンと一人になった時だけ、涙が流れた。
それが10年以上経って、カブトムシとして現れるとは夢にも思わなかった。
当初気づかなかった私は、息子に
「大事に育てるんだよ」
とごく当たり前のことを言っただけだった。命を大切に、と大人ぶったことを垂れた。妻は面倒な顔をしていた。
息子は虫カゴに腐葉土を敷き、木の幹や餌となるスイカの切れ端を置いた。
「豪華なホテルだよ!」
自慢げな息子を見て、私は満足した。
その晩、眠れず暗い部屋で酒を飲んでいると、誰かが私の名前を呼んだ。驚いた。声の主はカブトムシだった。もちろん音声は伴わない。テレパシーといったらいいのか。なにせ私にテレパシーの能力はない。
彼女は数え切れない輪廻転生を経てここまできたという。途中にはミジンコとして生まれたこともあったそうだ。
だが、人間時代の善行に免じて、ようやく私の元に来ることができたという。
「カブトムシなんて、大出世なんだよ」
私はなんと言えばいいのか分からなかった。彼女を忘れたことはなかったが、結局別の女性と結婚し子どもをもうけた。生活に目立った不満はない。おおむね円満な家庭だと私は思っていた。
だから、そんなところに彼女が現れたところで、困惑するしかなかった。むしろ、彼女の気分を害するのでは、と心配した。
「そんなの分かってるから気にしなくていいよ。ただ顔を見にきたかっただけだから」
「ただ、餌はスイカじゃなくてゼリーがいいな。スイカはお腹下すから」
私と息子は翌日、ホームセンターに行った。
私と彼女は毎晩話をした。彼女は自分の事を話をしたがらなかった。言語化できないことが多く、彼岸に関する守秘義務もあるとのことだった。
ただ、人間としての彼女は轢かれた時点で止まっている。記憶は私との日々で満ちていた。死ぬときに執着することといえば、私のことぐらいしなかったのだという。
それが私には悲しくて仕方がなかった。他にしがみつくべきことなんて、いくらでもあるじゃないか。
しかし、もし轢かれたのが私だったら、何に執着しただろう。やはり彼女なのだろうか。
「君が死んでから、相当の時間が流れた。物事も変わってしまった。今更会いに来ても、君が傷つくだけなんじゃないかな?」
「だから言ってるでしょう?達者な顔が見たいだけだって。奥さんと別れてカブトムシの私と結婚しろなんて言わないよ」
と言われても、私の心は落ち着かなかった。
彼女、カブトムシは1週間ほどで死んだ。息子以上に私が取り乱した。妻は私がおかしくなったのではと疑った。結局、私と息子はカブトムシを庭の隅に埋葬し、手を合わせた。
息子に葬送の儀を教えているつもりは一切なかった。私は彼女のために祈った。また逢いたいと願った。息子はその外見を真似ただけだ。それでよかった。
息子が近所の教会で仔犬を拾ってきた。ゴールデンレトリバーの仔犬だった。妻は息子に世話をし切れるのか、と詰問した。息子は泣きながら「できる!」と言い張った。
私は賛成した。もしかしたら、彼女かもしれないと思ったからだ。犬はオスだったが、そういえばカブトムシもオスだった。性別は関係ないのだろう。
やはり彼女だった。息子が彼女を拾ってきた。
「また逢えたね。今回は10年ぐらい一緒にいられるんじゃないかな」
「うん。帰ってきてくれて、ありがとう」
息子は犬をケンと名付けた。カブトムシにも名前はあったが、コッソリ彼女の名前で呼んでいたから、忘れてしまった。
息子はよく世話をした。餌やり、トイレトレーニング(というと変だが)、散歩、シャンプー‥よくやった。私は彼女と二人きりになりたくて、休日はなるべく自分が散歩に出た。
「どうして君はこうまでして僕に逢いにこようとするの?」
「顔が見たいから‥結局、まだ好きだからなんだね」
「ミジンコになっても?」
「ミジンコになっても、ゴキブリになっても、クラゲになっても、ずっとだよ。私の思いは20歳で止まったままなの」
「でも、僕の時間は死をめがけて流れ動き続けてるんだ。待ちようがなかった。もしまた君が現れると分かっていたら、どうしただろう。分からない」
「死んだ人間を待つ人なんていないよ」
ケン、彼女は車に轢かれて死んだ。道路に飛び出した私の息子を庇って。妻はケンの勇敢さを褒め称え、ペット葬に出した。
私は息子を恨んだ。ケンが彼女でなければ、こんなに怒り悲しむことはなかっただろう。そして、それは彼女が望む結果ではないと自分を慰めた。
もう息子は彼女を捕まえてくることも、拾ってくることもなかった。
私たちの時間は流れた。不可逆的な、時間。
息子はとっくに成人し、仕事に全てを捧げているらしかった。女っ気のない子どもだと私たち夫婦は笑いつつ、心配した。
それが突然、だいぶ年下の女を連れてきた。結婚するのだという。華やかではないが、まあ気立ての良い女だった。私たちは歓迎した。
四人で談笑しながらコーヒーを飲んでいたところ、私は女の視線に気づいた。
「お義父さん、老けましたね」
他の二人は聞き流した。私は理解した。
帰り際、彼女が私の耳元で囁いた。
「また逢えたね」
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