ジャック・ヴァンス『天界の眼 切れ者キューゲルの冒険』とP・G・ウッドハウス『ジーヴズの事件簿』の共通点
ファンタジー小説の古典、ジャック・ヴァンスの『天界の眼 切れ者キューゲルの冒険』を読んだのだけれど、どうにも不満が残る形になってしまった。
面白いには面白いのだけれど絶賛するほどではなく、もう少しこう――みたいな読後感になってしまった。なので、その理由を覚え書きとしてnoteに書き残しておきたい。
まず、この作品はタイトルにもなっているキューゲルを主人公にした物語だ。けれど、実はこの「切れ者」というのは自称で、どちらかと言えば「小悪党キューゲル」といったほうが正しい。
7つの短篇をつなぎ合わせた連作長篇といった作品で、第1短篇「天界」で笑う魔術師イウカウヌの館に忍び込んで失敗し、北の地に飛ばされたキューゲルがなんとか帰ってイウカウヌに復讐しようとする物語だ。
そして、この小説を読んでいる間中、僕はずっと別の作品のことが頭に思い浮かんでいた。
P・G・ウッドハウスの『ジーヴズの事件簿』だ。
ウッドハウスのこの作品については、2018年に報じられた以下のニュース、
これで知った人も多いかも知れない。
一見すると、この両者は全然別ジャンルに思えるのだけれど、僕はどうも同じタイプの作品じゃないかと読んでいてひしひしと思った。
『天界の眼』と『ジーヴズ』とは
ジャック・ヴァンスの『天界の眼』は1966年に刊行された作品だ。「滅びゆく地球」シリーズの2作目に該当し、これがどんなシリーズかは中村融による訳者あとがきに詳しい。
中略をはさみつつ、適宜引用しよう。
中略をはさんでもめちゃくちゃ長くなってしまった……というか悪漢小説ことピカレスク・ロマンの本来の意味を初めて知ったぞ、そんな意味だったのかお前。
一方、ウッドハウスのジーヴズはこんな話だ。
こちらは『ジーヴズの事件簿 才智縦横の巻』の裏表紙にある「あらすじ」がわかりやすく思えるので、引用してしまおう。
こっちは呆れるほど短い引用だが、概要は伝わると思う。
こうやって並べてみると全然別の話じゃないか? って気もしてしまうが、読んでみると意外と近いように思えたのだ。
なんでそう思ったのかといえば、キューゲルとバーティという二人のキャラクター造形と、このふたつの作品の構造がとても似ているのが原因だ。
よく似た(?)2人
つまり、バーティから善性と金持ち要素を取り除いて、さらにジーヴズという超優秀なサポート・キャラクターを取っ払い、舞台を20世紀初頭のロンドンから危険極まるファンタジー・ワールドに変更したら、キューゲルになる……というのが僕の印象なのだ。
変えすぎて原型なくないか? と思った人もいるかも知れないし、僕も正直ちょっとそう思ってしまったが、読後感は似通っていたのだ。
これは僕がピカレスク・ロマンの本来の意味を知らなかったのもあるけれど、やっぱりキューゲルとジーヴズの構造が似ていたのが大きいと思う。
ジーヴズ・シリーズにおいて、バーティはなんらかの厄介事に巻き込まれる。そして、それを超有能執事のジーヴズが解決するというのが基本的なストーリーだ。
しかしキューゲルにはジーヴズに該当するキャラクターがいない。
必然、キューゲルは窮地に陥っても助けてもらえず(それ自体はキューゲルが悪党なのもあって自業自得でもあるが)、ひどい目に遭ってしまう。
これが、もしもバーティにジーヴズがいなかったら……という状況を連想させてしまうのだ。
結果、この小説は間抜けな主人公の頓珍漢な行動を描いたユーモア小説のように読める。
そしてそのことが第一の不満点となった。
笑いは文化に依存する
第一といったからには第二も第三もあるのだけれど、まずは順を追ってユーモアについて語ろう。見出しそのままだけれど、笑いというのは文化に依存するものだ。
名前は忘れてしまったけれど、確か欧米のユーモア小説のたぐいに対して「全然笑えない」と言っていた評論家がいた。
実際、日本の笑い(主にボケとツッコミ)についてうまく理解できず、研究している外国人の文章も見つかる。
上の文章では「そもそも、なぜ多くの外国人は日本の笑いを理解できないのか。そして日本人はなぜ欧米の笑いは面白くないと思うか」といった問いが立てられている。
実際、僕はジーヴズ・シリーズについて、そこまで面白いと思っていない。理由はもちろん、笑いどころがそもそも違うからだ。
Amazonとか読書メーターなんかの感想でも似たような不満を漏らしている人がいたように思うけれど、これなんかまさに笑いどころの差が如実に出てしまった結果だと僕は見る。
厳密に言えば、僕はジーヴズ・シリーズをまったくつまらないと思っているわけではない。面白いシーンもある。けれど、たぶん英米の読者が思うような笑いというかユーモラスさは感じていない。
ジャック・ヴァンスの『天界の眼』にしても、キューゲルの行動にユーモラスさを覚えることが僕には困難で、それがこの作品を素直に面白かったと言いがたいものにしている。
主人公の活躍しなさっぷり
キューゲルは悪党だけれど、ファンタジー小説において悪党が主人公になることは別に珍しいことではない。
それこそヒロイック・ファンタジーの古典、ロバート・E・ハワードの『英雄コナン』だって主人公は荒くれ者だし、同じく剣と魔法の物語の古典であるフリッツ・ライバー『ファファード&グレイ・マウザー』なんて作者自ら「折紙つきの無法者」と呼んでいたりする。
フリッツ・ライバーは自身の作風を「ブラック・ユーモア」と称してもいるから、この手のユーモラスさにも先例がある。もちろんライバーの場合も、僕はそのユーモアを完全に消化できているわけではない。
しかし、キューゲルと違って彼らは強いし活躍もする。フリッツ・ライバーはファファードとグレイ・マウザーについて、
と書いているけれど、彼らは同時に剣の達人でもある(マウザーはたまに魔法も使う)。
ヒーローである以上、それ相応に腕が立つのは当然だけれど、キューゲルはアンチ・ヒーローとでも言うべき存在で、剣を持ってはいるものの達者とは言いがたく、敵を相手に八面六臂の大立ち回りとはいかない。
魔法の出番が少ない
これと関連することだけれど、そもそもキューゲルは魔法使いではない。
なので、訳者あとがきでも触れられた本シリーズの特徴――「呪文は脳にあたえる負担が大きいので、かぎられた数しか暗記できず、使うたびに憶えなおさねばならない」は、ほぼ存在感を失っている。
もちろん作中には笑う魔術師イウカウヌを始め何人かの魔法使いが登場する。なんならキューゲルも終盤(6つ目の短篇「森のなかの洞穴」)で裏返しの術というのを使う。
キューゲルはラストを飾る「イウカウヌの館」でも呪文を使おうとして見事に失敗したりするが、訳者あとがきにある設定――つまり使える呪文数が限られているので、いつ・どこで使うか――みたいな駆け引き要素はまったくない。
僕が前作『終末期の赤い地球』を読んだのは何年も前で、内容については完全に忘れてしまった。ただ、魔法の存在感はもっと強かったように思う。
なにせ第1話のタイトルが「魔術師マジリアン」であったわけだし。
僕には合わない作品
ともかく僕の不満点は上記の三つだ。
なんやかんや僕は主人公が活躍するタイプの作品が好きで、残念ながらキューゲルはそこから外れていたこと、特徴的なはずの魔法の出番が少なかったこと、なによりアメリカ人と日本人の間にある笑いの感覚のズレ……こういったことがいくつも積み重なって、「イマイチだなぁ」という感想になってしまったのだ。
最近よく聞く言葉で言うならnot for meというやつだ。僕とは合わなかった。
もちろんヴァンス独特の世界観とか、キューゲルを始めとしたキャラクターの行動だって何から何までつまらなかったわけじゃない。
興味深い点はいくつもある。
けれど、微妙に僕が面白いと思えるポイントを外していったのだ『天界の眼』という作品は。
正直、ひとつひとつならそこまででもない。
主人公が活躍しなくても、準主人公格とかヒロインとかが活躍したり、作品の特徴(この作品で言えば魔法の設定)が独特で面白かったり、単純にキャラの言動が笑えるとか……。
でも『天界の眼』はそういった部分がなく、だからこそ素直に「あー、面白かった」で読み終えることができなかった。
せっかくのファンタジーの古典だというのに残念な限りだ。
余談「魔術師マジリアン」は第1話か第2話か
ところで『天界の眼』の訳者あとがきを読んで、ひとつ驚いたことがある。
上に書いた通り、僕が『終末期の赤い地球』を読んだのは何年も昔の話なのだけれど、実は第1話と第2話が入れ替わっていたというのだ。
確かに、朧気だけれど『終末期の赤い地球』を読んだ際、「あれ? 第1話と第2話、逆じゃないか?」と思った記憶がある。
当時は何かしらの演出かと思って深く気にしていなかったのだけれど、まさか単に編集ミスで1話と2話が入れ替わっていただけとは予想がつかなかった。
もし『終末期の赤い地球』を再読する機会があったら、今度は順番通りに読んでみるとしよう。
あるいはこのnoteを読んでいる人で、これから『終末期の赤い地球』を読もうという人は、第2話「ミール城のトゥーリャン」を最初に、そのあと第1話「魔術師マジリアン」を読めば順番通りになる。
3話以降はそのままのようだから、2→1→3→4→5→6が編集ミスなしの順番となる。