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めっぽう面白い金庸の武侠小説『秘曲 笑傲江湖』

 1990年代、徳間書店は突如として香港の作家、金庸きんようの作品を次々と翻訳出版した。
 理由は単純で、市場調査をしてみたら世界で一番売上の高い作家は金庸だと知ったからだ。

 ただ、そうやって続々と翻訳された金庸作品だけれど、現在ではすっかり品切れだらけになってしまっている。

 僕自身、たまたま図書館にあるのを発見して、ちょいと読んでみるかと思ったのがきっかけで手に取った。そうでなかったら永遠に読まないままだったろう。
 とはいえ借りて読んだものだから、だんだん記憶が薄れてくる。そんなわけでnoteとしていくつか感想を書き残しておこうと思う。


金庸について

 金庸は1924年に生まれた作家で、すでに物故している(2018年、94歳で没)。
 金庸というのはペンネームで、本名は査良鏞さりょうようという。筆名の由来は、本名の「鏞」の字を分解して金庸としたもの。

 1955年に『書剣恩仇録しょけんおんきゅうろく』という武侠小説を発表して作家デビュー。以降は続々と武侠小説を連載し、流行作家となる。
 その人気は香港から台湾、さらに中国本土にまで及び、中華圏では知らぬものがないとされるほど
 1995年、現代中国の代表的作家を選んだ「20世紀中国文学大師文庫」では第4位(1位は魯迅、2位は沈従文、3位は巴金)に選ばれるほど評価も高い。

 特に1957年から連載が開始された『射鵰英雄伝しゃちょうえいゆうでん』は金庸の代表作で、武侠小説の大家としての地位を決定づけたという。
 ただし、金庸は1972年に完結した『鹿鼎記ろくていき』をもって断筆しており、作家としての活動期間は20年に満たない。

 僕が今回読んだ秘曲ひきょく 笑傲江湖しょうごうこうこ』は1967年から69年まで『明報』という香港の新聞に連載されていた武侠小説で、金庸の代表作のひとつ。
 何度も映画化、ドラマ化されている。

武侠小説とは

 この武侠小説と呼ばれるジャンルだけれど、たいていはカンフーアクションみたいな、という説明がなされる。
 基本的には時代小説かつ冒険小説で、近世以前の様々な歴史背景を舞台に武術の達人たちが大暴れするような作風を指すらしい。

 といってもジャンル定義によくあることだけれど、結構定義は曖昧らしく、具体的にこう! みたいな断言は難しいようだ。

 僕は金庸の一作しか読んでいないから大して語れないけれど、調べた限り時代背景が曖昧なパターンもあるらしく、正直ジャンル定義に拘泥すると泥沼にはまりそうだ

 しかも金庸――正確には金庸、梁羽生りょううせい古龍ク・ルンといった作家たちの登場により、それまで低俗な娯楽小説と見られていたものが文学作品としても認められるようになったというのだから、尚の事ジャンルの定義は難しそうだ。

 話を金庸に限って言うと、どうも深い教養に裏打ちされた壮大な歴史背景をもとに、様々な史実の人物・民族を登場させたことで歴史叙事文学としての評価を決定づけたらしい。
 実際、中国には金庸を研究する「金学」なんてものもあるそうで、ここらへんが「武侠小説の第一人者」と呼ばれるゆえんなのだろう。 

 ただ、僕が読んだ『秘曲 笑傲江湖』にはそういった歴史背景が存在しない。その理由を、金庸はあとがきでこう語っている。

 描きたかったのは、人間における普遍的な性格であり、政治生活の中に常時見られる現象なので、本書には歴史背景がない。それは、類似する情景が、いかなる時代にも起きうることを示している。

金庸『秘曲 笑傲江湖 第七巻 鴛鴦の譜』岡崎由美監修、小島瑞紀訳、徳間書店

 とはいえ、作中に描かれた時代風俗なんかから明を舞台にしたものと推理されている。
 実際、『笑傲江湖』を原作にした香港映画『スウォーズマン』では(僕は未見)、明代が舞台だと明言されているそうだ。

『笑傲江湖』の武術用語

 僕が読んだのは、今のところ金庸の『秘曲 笑傲江湖』だけだけれど、気功を使う武人(武侠)がバトルしまくっていて、ファンタジー少年マンガみたいな作風だった。

 文庫版も出ているようだけれど、僕が読んだのはハードカバー版だ。
 各巻の巻末には「(付)『笑傲江湖』基本用語解説」がついていたので(最終巻である七巻を除く)、その解説を引用してみよう。

〈社会用語〉
江湖こうこ 本来は「官」に対する「野」つまり民間の象徴。武侠小説では、主に侠客や武芸者、盗賊などの世界をいう。
武林ぶりん 武術界。多岐にわたる武術門派より構成される。
門派もんは 武林の構成単位。宗教団体や武術道場が主な母体で、厳格な師弟関係によって構成され、上下の別を重視する。
鏢局ひょうきょく 民間で隆盛した警備業と保険業と運送業の合体した商売。鏢師ひょうし鏢客ひょうかくと呼ばれる用心棒を派遣し、金品、旅客の護送を請け負い、貨物が紛失、強奪された際には、委託主への賠償責任を持つ。一般には、沿道の顔役にみかじめ料を払って、道中の安全を図った。
鏢頭ひょうとう 貨物の護送にあたる用心棒の中で、リーダー格の者を指す。
幇会ほうかい 江湖の構成単位。同郷・同業者の互助組織や、政治や宗教の結社に起源を発する。

〈武術用語〉
内功ないこう いわゆる気功。意念や呼吸・血流など、身体の内部機能を鍛錬し、体内の「気」が生み出す内力を自在に操る技。攻撃・防御・治療など様々に用いられる。すべての武術の基本であり、徒手・器械を問わず、各種技術の裏打ちとなる存在。一般に「××功」と称されるものは、この内力の鍛錬法である。
内力ないりょく 体内の経絡を流通する「気」、すなわち内息ないそくが生み出す力。内勁ないけいともいう。内力の修練が深まれば、自然に防御力が備わるほか、掌や武器などを通じて放出することで、敵にダメージを与えたり、治療したりもできる。また、五感も常人より鋭くなる。
外功がいこう いわゆる武術。皮膚や筋肉を鍛えあげるほか、型や技法の修練もこれに属する。
軽功けいこう 身ごなしを軽くする技。軽身功けいしんこうともいう。武侠小説では、軽功を得意とする武芸者は、常人の何倍もの迅さで疾駆したり、身軽に宙を跳んだりする。
掌法しょうほう 手技の一種。こぶしを用いる拳法に対し、手のひらや手刀を用いる。内功の素養が重視され、掌から発する内功(掌力しょうりょく)が主な威力となる。
点穴てんけつ 特定の経穴けいけつ(ツボ、穴道けつどう)を衝いて内息の循環を遮断する技。経穴の位置によって、動きや各種の身体機能が封じられ、死に至ることもある。止血や、毒が回るのを防ぐ作用もあるため、治療にも用いられる。機能を回復させる場合は、ふたたび経穴を衝くか、みずから内息をめぐらせて、徐々に解除することもできる。

金庸『秘曲 笑傲江湖 第六巻 妖人 東方不敗』岡崎由美監修、小島瑞紀訳、徳間書店

 まだあるけれど、だいたいの概要は伝わると思う。これだけ見ると超人バトル漫画のノリだ。
 というか実際その通りで、ちょっと違うけれど僕は読んでて山田風太郎の忍法帖シリーズを思い出してしまった

 とはいえ、まったく同じ味わいかというと、そうでもない
 金庸の武侠小説――といっても、僕は『秘曲 笑傲江湖』しか読んでいないわけだから、ほかの作品はまた違うのかも知れないけれど――に関して言えば、忍法帖シリーズに見られるような悲劇性はあまり感じられない

 もちろん悲惨な末路を迎える登場人物も少なくない
 でも、基本的に悪党はその報いを受けるし、主人公とヒロインは最後に結ばれて大団円だし……いや、忍法帖でも『柳生忍法帖』みたいな大団円で終わる作品もあるけれど、これは例外だ。

 かつて中条省平が『反=近代文学史』において、

 山田風太郎の小説に、作者が太平洋戦争を通過したことによる痛烈なニヒリズムが色濃く滲みでていることはだれでも指摘する。また、膨大な忍法帖シリーズが隅から隅まで、ひたすら権力者に使い捨てられる忍者集団を主人公としていることは、太平洋戦争で無数の兵士が使い捨てられたという歴史的事実と重ねあわせることができるだろう。

中条省平『反=近代文学史』中公文庫

 と語っているように、忍法帖シリーズは権力者の都合で主人公たちがひたすら振り回され、決してハッピーエンドにはならないお話だ(一部例外を除く)

 もちろん『伊賀忍法帖』や『忍法八犬伝』、『くの一忍法帖』、『忍びの卍』とか……最後の最後、彼らはほんの少しだけ一矢報いる――少なくとも権力者の思惑通りにはさせないという点で
 僕はそこに感動を覚えるわけだけれど、『秘曲 笑傲江湖』にはそういう意味での悲劇性が薄い

忍法帖シリーズとの共通点と違い

 ほかにも違いはある。
 奇想天外な力を持った武術家、すなわち武侠同士の戦いは時に少年漫画チックで忍法帖シリーズを思わせるものだ。

 とはいえ、山田風太郎の忍法帖はエロ・グロ・バイオレンスの三つが特徴だけれど、金庸の場合、この三つのうちエロさに関しては極めて薄い

 作中での残虐なエピソードの数々という意味でのグロさ、武侠同士の手に汗握るバトルという意味での暴力性、これらは共通しているもののエロに関しては禁欲的というか、だいぶ抑制されている印象だ。

 もっとも、金庸の小説は基本的に新聞連載の形を取っているからこれは仕方ないと言える。『秘曲 笑傲江湖』だって『明報』という金庸自身が創刊した新聞に連載されていたのだ。

 さすがに新聞連載で忍法帖みたいな煽情的なエロを書くわけには行かないだろう……と思ってよく考えたら、忍法帳も一部作品は普通に新聞小説だった。

『柳生忍法帖』はもともと『尼寺五十万石』の題で地方紙に連載されたものだし、おそらく一番知名度が高いと思われる『魔界転生』だって、元は『おぼろ忍法帖』のタイトルで大阪新聞その他に連載された小説だ。

 あれ普通に新聞に載ってたのか……とちょっとびっくりするけれど、まぁとにかく金庸とはエロさの点でだいぶ違う

 それに一人一能力(忍法)な能力バトルものの要素が強い忍法帳に対して、『秘曲 笑傲江湖』はどちらかというと『ドラゴンボール』や『北斗の拳』みたいなバトル漫画を連想させる。

 Aという能力を使って、いかにBという能力を打ち破るか……的な駆け引きではなく、純粋に強いやつが活躍したり、強者同士ならなんとか相手の隙をついたり秘技を用いたりして勝利……という感じだ。

『秘曲 笑傲江湖』のふたつの特徴

 僕は事前に、この作品についてふたつのことを知っていた。

 ひとつは東方不敗というキャラクターだ。
 僕は未見なのだけれど、『機動武闘伝Gガンダム』に登場する同名キャラクターの元ネタがこの『秘曲 笑傲江湖』なのだ。
 厳密には、この作品を原作とする映画『スウォーズマン 女神伝説の章』というのが直接の元ネタらしいのだけれど、とにかく金庸が日本の作品に影響を与えていたわけだ。

 そしてもうひとつ、主人公の登場が遅いという点だ。
 なんか「本来の主人公がなかなか登場しないぞ」みたいな話を聞いていて、「へぇ、そうなんだ」と思って読み出したら本当になかなか登場しない

 ちまちま読んでいたから一巻を読破したのがだいぶ前なので記憶がだいぶ薄れているけれど、確か100ページどころか200ページを過ぎてようやく出てきた気がする。
 しかも最初、主人公の令狐冲れいこちゅうは死んだという話で(もちろん実際はちゃんと生きている)、回想の形で登場するという……

 じゃあそれまで何を語っているのかというと、林平之りんへいしというサブキャラクターについてのエピソードだ。
 僕は主人公の登場が遅いと聞いて、てっきりバルザック的な背景描写が細かくてなかなかストーリーが進まない的なのを想像していたら全然違った

 むしろストーリー的には最初からクライマックスだ。
 なにせこの林平之、いきなり自分のみならず家族や仲間まで命を狙われ、頼れる味方はどんどん殺されていく
 事前に主人公の登場が遅いと聞いていなかったら、こいつが主人公だと誤認してめっちゃ戸惑っていただろう

 もちろん、これは全7巻に及ぶ大長編の1巻目だ。まだまだ序盤もいいところなんだけれど、さすがに本来の主人公がここまで影も形もないとは思ってもみなかった

めちゃくちゃ長いプロローグ

 物語はまず、林平之が酒場で働く女の子を助けようとして、うっかり相手を殺してしまったところから始まる
 この時点では知らなかったが、実は林平之が殺したのは青城派という武術流派の総帥・余滄海よそうかいの息子だったのだ。
 当然、青城派は報復に来る

 林平之は上の解説にもある鏢局の御曹司で、自身も家伝の剣法・辟邪剣法を使えるのだが、腕は未熟だ。
 そして本人はもちろん、父親も鏢局の仲間も青城派にはまるで太刀打ちできず、どんどん殺されていく
 最終的に一家離散の状態で逃げることになるが、その時点で林家は壊滅状態。なんとか生き残りをかけて逃げ出す……なんていう状態にまで追い込まれる。

 実はこの襲撃は、もともと青城派が辟邪剣譜へきじゃけんぷという辟邪剣法の秘伝を記した書物を手に入れようと起こした陰謀だったのだ。
 この辟邪剣譜をめぐる争いは水面下でずっと行なわれていて、6巻、7巻あたりでついに本物の辟邪剣法(それまで林平之が習っていた辟邪剣法はまがい物だった)の使い手が登場することでにわかに存在感を増す

 なので、この林家をめぐる凄惨なストーリーは物語上、重要なものではあるのだけれど、それにしたって主人公が全然出て来ないのは驚かされる。
 普通だったら主人公はできるだけ早く登場させようとするだろうに、金庸はまったく頓着しない。
 ゆうゆうと、いわば物語のプロローグを長々と語る

 林平之は1巻の終盤で華山派の総帥・岳不羣がくふぐんに助けられて弟子となるのだけれど、ここら辺りでようやく本作の主人公・令狐冲が目立ち始める

 というより、ここから主人公がすっぱり入れ替わったかのような印象さえ与える。なにせ以降は令狐冲が中心となってストーリーが進んでいくのだ。
 もう少しこう――林平之の視点も交えつつ……みたいな感じかと思ったら、ここからは普通に令狐冲が主役になって林平之は目立たなくなってしまう

秘伝で強くなったと思ったら怪我で満足に戦えない主人公

 で、この令狐冲なのだけれど、最初から無敵の強さを誇っているわけではなかった。
 華山派の一番弟子としてそれなりの腕を誇るものの、達人相手にはまったく勝てないくらいの強さだ

 ところが、2巻序盤で師父から謹慎を命じられて、令狐冲は山の洞窟で過ごすことになる。さらにひょんなことから剣術の絶技が記された壁画を発見する

 そこへ田伯光でんはくこうという悪党(1巻で令狐冲と因縁ができている)が来て勝負することになるのだけれど、もちろん令狐冲では相手にならない。
 勝てない令狐冲は壁画の剣術をこっそり練習して腕を上げ、さらに風清揚ふうせいようという隠居した華山派の先輩から独孤九剣どくこきゅうけんという無敵の剣術を習ってさらに強くなる。

 ああ、ここから主人公の本格的な活躍が始まるのかな……と思ったら令狐冲さん、あっさり怪我で満足に腕を振るえなくなる。正直、僕はこの展開に度肝を抜かれた
 だって割とすぐに治るのかなと思ったら、なんと完治するのが4巻(厳密には治ってないのだけれど)の途中だ。

 まさかの3巻まるまる主人公が怪我により全力で戦えない状態だ
 嘘だろ、おい……。
 
いや、令狐冲もそれなりに活躍して敵を倒すんだけれど、それにしたってこんなにずっと怪我させたままにするのか……。

 4巻で怪我が治って吸星大法きゅうせいだいほうという技を身に着けると、令狐冲は本当に強くなる。剣さえ握っていれば大体の相手に勝てるほど強い
 けれど、逆に剣以外はてんでダメ。剣を使えない状態になると途端に弱体化したりする。

 なので主人公のピンチを演出しようと思ったら、必然的に苦手な分野で戦わせたり、怪我で本来の実力を発揮できない状態にするほかないわけだけれど、しかし強さが極端だ。

ジャンルミックスな小説

 ところでこの作品、あらすじをまとめようとするとどうしても話がとっ散らかってしまう
 全7巻の大長編だから……というのもあるけれど、それ以上にいろいろなジャンルがミックスされていて、一概にこうと説明しづらいのだ。

 僕はこれまで令狐冲の強さというか、バトル的な側面に注目して語っていたわけだけれど、この作品には恋愛小説としての側面陰謀・ミステリーとしての側面も兼ね備えている。

 後者に関しては、無敵の剣法と謳われたはずの辟邪剣法の使い手たち(林家の人間)がどうして弱いのか?
 どこかに本物の辟邪剣法を記した辟邪剣譜があるはずでは?

 令狐冲自身、この辟邪剣譜をめぐる争いに巻き込まれる。なにせ林平之の両親が死ぬ場面に居合わせているのだ。
 二人から辟邪剣譜にまつわる遺言を聞いて林平之に伝え、さらに自身も独孤九剣という無敵の剣法を身につけたことで、「令狐冲こいついきなり強くなりすぎだろ……辟邪剣譜を盗んだ犯人なんじゃね?」と疑われることになる。

 さらに遺言にしたがって林平之が家探しした結果、辟邪剣譜を記した袈裟を発見するも奪われ、令狐冲が取り返すという展開
 ところが手傷を負った令狐冲は林平之に届ける前に力尽きてしまう

 目覚めたとき、令狐冲のふところに辟邪剣譜を記した袈裟はなかった――いったい誰が盗んだのか? 犯人は?

 ほかにも恒山派の総帥が暗殺されたりするんだけれど、誰が殺したんだとか作中ではあれこれと謎が提示されミステリー的な興趣を引くようになっている。

 さらに恋愛小説としての側面もあって、令狐冲は師父の娘である岳霊珊がくれいさんに恋い焦がれているんだけれど、この岳霊珊……林平之が弟子入りすると、あっさり令狐冲ではなく林平之に熱烈な恋をするようになる。

 三角関係……ではなく、今どきの言葉で言うならNTRだ
 かわいそうに令狐冲は脳を破壊され、岳霊珊のこととなるとそれだけで頭がいっぱいになり、まともな判断力が働かなくなってしまう

 この岳霊珊による令狐冲の判断力低下がどんくらいすごいかって、第5巻における少林寺での師弟対決がまさに好例だ。
 なにせ師の顔を立てて勝つ気がなかったのに、決闘のさなか岳霊珊のことで頭がいっぱいになって(それ自体は師である岳不羣の策略でもあるが)、「いやダメだ。任盈盈じんえいえいを裏切るわけには……!」とか内心で葛藤しているうちにうっかり独孤九剣を使ってしまい師匠の腕を斬りつけて勝利などというミスまで犯している。

 嘘だろ、お前……
 状況的には師匠より遥かに強くなってしまった弟子という燃えるシチュエーションだぞ? こんな決着でいいのか? まぁいいか! 面白いから!

 ちなみにサクッと名前が出てきた任盈盈、3巻から登場するツンデレヒロインだ。
 なにせ令狐冲にベタ惚れなことをバレたくない一心で「令狐冲を殺しなさい!」と命じる女だ。自分の恋心を知られたくないがために愛する男を殺せと口走るとかツン要素が強すぎる

 ちなみにこの任盈盈、出てきた当初は令狐冲に老婆だと勘違いされていた。さらに武術の腕も立つ上に、日月神教じつげつしんきょうという魔教の(元)教祖の娘だったりする。設定が濃い……!

 なお、令狐冲にはもうひとり、儀琳ぎりんというヒロインも登場したりする。
 1巻で田伯光の魔の手から救われたことをきっかけに令狐冲に惚れるのだけれど、尼僧なので結婚することはできない……とか思っていたら、この儀琳の父親が不戒和尚といって、めちゃくちゃキャラが濃い

 この和尚、「不戒」の名の通りまったく戒律を守らない
 というか出家したきっかけが尼さんに惚れたからで、僧侶の身でありながら妻帯し、儀琳という娘を儲けている。しかも美人の尼っ子なら男は惚れるものと思い込んで、娘の儀琳と令狐冲を結婚させようとしてくる

 そしてこの和尚の奥さんがまたすごい女なのだ。
 昔に出て行ったきり行方知れずで、不戒和尚はずっと探しているのだけれど全然見つからず、7巻でついに本格的に動き出すのだけれど……いや、これ以上はよそう。ネタバレになりすぎる。

 ともかく両親ともに強烈だ。
 こう言っちゃなんだが、一応ヒロイン・ポジションのはずの儀琳より目立っている

個性豊かすぎるキャラクターたち

秘曲 笑傲江湖』には多彩なキャラクターが次々と登場する。

 チラッと名前だけ出した東方不敗とか、ものすごく意外なキャラクター像で仰天してしまう
 いや、これについてはGガンダムのマスター・アジア(東方不敗)という人物像のせいで余計にそうなっているのかも知れない

 前に書いた通り、僕はGガンを見ていないのだけれど、東方不敗マスター・アジアのキャラだけは知っていた。なので、元ネタである『笑傲江湖』の東方不敗もきっと渋い男なんだろうなぁ……と勝手に思い込んでいたのだ。

 実際、作中では任我行じんがこう(任盈盈の父親)から教主の座を奪い取り、さらに武林にその名が轟くほどの達人葵花宝典きかほうてんという魔教に伝わる秘伝も身につけ、まさに無敵の武侠!
 なにせ6巻で登場した際、令狐冲と任我行、さらに向問天こうもんてんという作中でも屈指の使い手たちが複数がかりで攻め入ってもまるで倒せない

 そりゃいかにも強い男を想像するだろう。
 ところが出てきたのはなんとオカマ……いや、自宮(自分で去勢)しているからニューハーフか? 作中じゃ女形呼ばわりされていたけど、とにかく屈強な男とは正反対なものがお出しされてびっくりだよ

 しかもそれが作中でも最強の達人なんだから出番は短いけど、ものすごく強烈な印象を残す。
 ちなみに前述の映画『スウォーズマン』だと男装の美人女優が演じていて、以降は男装女優がやるのが定番になっているとか。
 ただ、設定上、東方不敗はそれなりに高齢なので、女優が男装して演じるのは原作再現とは言い難く金庸はあまり気に入っていないらしい。

 このほか、令狐冲の師匠である岳不羣――最初は君子剣なんて評される慈悲深い男だと思ったら、巻が進むごとに本性を出して……。

 さらに崇山派の総帥・左冷禅されいぜん
 五嶽剣派を取りまとめ、その勢いで魔教をも制し、江湖の覇者として君臨しようと目論む野心家だ。作中でも岳不羣と並んであれこれと陰謀をめぐらしている

 まぁとにかく個性的なキャラクターが幾人も登場して飽きさせない

『秘曲 笑傲江湖』の大きな欠点

 こんな感じでエンタメとして大変おもしろい代物に仕上がっているんだけれど、欠点もなくはない
 言わずもがな、流通の問題だ。

 日本では徳間書店から98年にハードカバーで刊行され、2007年には徳間文庫版も発売されている。
 でも2025年2月現在、それらはすべて品切れだ。電子書籍にもなっていない。

 いや、『秘曲 笑傲江湖』に限らない。金庸作品は新本として買うことができない状態になってしまっている。
 僕は今回、『秘曲 笑傲江湖』を読んでとても面白かったんだけれど、残念ながらあまり売れなかったようだ。ベストセラーなら品切れになっていないだろう。

 なので、もしこのnoteを読んで金庸に興味を持った人がいる場合、地元の図書館か古本屋を探し歩くしかない
 金庸作品、最大の欠点と言えるだろう。

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龍思案堂
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