映画「天気の子」を今見たら完全にコロナと闇バイトを予言する映画だった件について【俺と新海誠#2】
どうもTJです
今回は2019年公開「天気の子」をコロナウイルスと闇バイトという観点を入口として、考察していき、作品の深層にも迫っていきたいと思う
前作「君の名は。」の考察も併せてご覧頂きたい
コロナウイルスと闇バイト
雨が降り続ける東京
希薄化する人間関係
家出少年の帆高はネットカフェで生活し、カップラーメンで食い繋ぐ
そしてこの夏、彼は世界の形を変えてしまう
この状況、何かを彷彿とさせる
そう、世界中を襲ったコロナウイルスだ
驚くべきなのが、今作の公開が2019年ということ
コロナウイルスが蔓延したのは2020年
劇中に数回登場する新国立競技場を観ても、今作は恐ろしいほどに未来を暗示した作品となっている
帆高は学生証を持っておらず、お金を稼ぐために怪しげなバイトに手を出そうとする
これは未遂に終わってしまうが、とあるきっかけで拳銃を手にし、のちにこれを利用する
これも今、世間を騒がせる闇バイトに酷似していると考えるのは自分だけだろうか
(実際に劇中で「ブラックバイト」という単語も出てくる)
優秀なクリエーターはその時の今、そして未来への萌芽をキャッチアップし、画面上に表出させる
コロナウイルスを経て顕在化した埋まらない格差
新海誠は2019年の時点でその予兆を的確に捉えていた
2024年の今だからこそ、新海誠の予見性が鋭さを増す
社会的な正しさ
ここからは作品内部へと入っていく
家出少年の帆高は冷たい東京に仕打ちを受けるも、オカルト雑誌を編集するライターの須賀、そして天気を晴れにする能力をもつ陽菜に出会う
帆高は2つの擬似家族的コミュニティに属することになる
余談になるが、擬似家族という点では2018年公開「万引き家族」、そして格差を描いたという点では2020年公開「パラサイト 半地下の家族」に類似点を見出すことが出来るだろう(須賀の事務所も半地下である)
しかしこの2つの擬似家族は社会的な“正しさ”によって引き裂かれる
今作のテーマは社会的な“正しさ”だ
須賀は社会的な正しさを体現するその象徴として描かれる
帆高と須賀は決定的に違う
帆高はまだ子供だ
だから自分の正しさを優先するし、自分の正しさが親に伝わらなかったから家出という身勝手な行動に出ている
須賀はもう大人だ
だから社会的な正しさを優先し、帆高には「大人になれよ」と言って事務所から追い出す
※詳細は描かれないが、過去、須賀も自分の正しさをどこかで諦めたことが推測できる
今作が巧みなのは観客に感情移入させる対象として主人公の帆高を用意するだけでなく、そのエクスキューズとして大人である須賀を“一時的に”配置しているところだ
観客は帆高に対してのイライラをある種、須賀を通じて消化することができる
対して夏美は社会的な正しさに従いつつある大人と子供の中間的役割を担っている(だから夏美は就活に苦戦している)
擬似家族的コミュニティを追い出された帆高はもう1つの擬似家族である陽菜たちと行動するしかし、その陽菜も晴れにする能力の代償として帆高の元からいなくなる
須賀が言うように、大衆は一人の女の子が犠牲になって天気が元に戻るのならその方が良い
社会的な正しさがここで執行される
またなぜ陽菜が犠牲になるのかというところも序盤から積み上げた占い師や神社といったオカルト的伏線で正当性を図っている
このオカルト的要素は前作「君の名は。」でSFと震災(災害)を繋ぐ結合点として発明したもので、非常に巧みに用いられている
新海誠にとってオカルトとはある種日本的なものであり、前作から続く海外進出への足掛かりとなっている要素でもある
ラストの意味:セカイ系2.0
社会的な正しさに引き裂かれ、2つの擬似家族を失った帆高
彼がその中で取った行動とは何なのか
それは自分が信じる正しさを選択することだった
帆高は天気よりも、陽菜を救うことを選択する
(その過程では法律を破りまくり、拳銃まで使用する)
今作は社会的な正しさよりも自分の正しさを選ぶことを肯定する
だから社会的な正しさを体現する須賀も最後は帆高に味方し、警察の邪魔をする
一時的に置かれたエクスキューズをここで潰し、観客に帆高への感情移入を強制的に図るという、ある種暴力的な手法を新海誠は選びとる
結果として、陽菜は救われ、帆高は家に戻った
その代償としては、東京は沈没する
3年後、帆高は沈没した東京を目にして自分が世界を変えてしまったことを痛感する
周りの大人たちは「自惚れるな」「気にするな」と声をかけ、帆高の気持ちは揺らぐ
しかしその後、祈る姿の陽菜を見て、彼はやはり自分たちが世界の形を変えてしまったことを確信する
なぜ能力を失ったのにも関わらず、陽菜は祈っていたのか
そこにあるのは、紛れもなく罪悪感だろう
彼女は毎日、沈没する東京を目にしながら、一人で多くの感情を抱えている
そんな陽菜と3年ぶりに再開して、帆高は言う
「僕たちは大丈夫だ」と
この大丈夫とは何か
罪悪感を抱える陽奈を安心させるための大丈夫、そして天気よりも陽菜を選んだ選択に対しての大丈夫ではないか
社会的な正義より自分たちの正義を優先し、その結果世界の形を変えてしまった
それでも僕たちは大丈夫だと社会的な正しさより自分の正しさを優先した主人公の選択を監督自らが肯定することで、幕を閉じる
もちろんここは賛否が分かれるところだろう
実際に陽奈を救ったことの裏側では多くの人たちの住処や暮らしが奪われた
もしかしたら亡くなった人も多くいたかもしれない
しかし、大多数の人々(社会)のために、何の罪のない一人の少女を犠牲にすることは果たして正しいのか?
社会(マジョリティ)にとってはそれが正解かもしれない
だが、穂高にとっての正解は陽奈を救うことであり、たとえ世界の形を変えたとしても自分の信じる正しさを選んだ
何事も大多数にとっての正解がその人にとっての正解とは限らない
今作はそのことを私たちに知らせ、そして自らの信じる正解を選ぶことを肯定してくれる
これこそが究極のセカイ系であり、「君の名は。」の発明を経て新海誠が辿り着いたセカイ系の集大成(セカイ系2.0)と言えるだろう
総評
TJ的評価は⭐︎4.9/5
「君の名は。」の発明を継承しながら、前作からのセルフアンサーとして、今作は社会の正しさと向き合う
前作を経て国民的作家へとステップアップした新海誠が描くからこそ、今作の持つ意味は大きく、鋭い予見性も見せつけた
ということでいかがだっただろうか
今後も引き続き新作、旧作問わずレビューしていくので良かったらスキ、フォロー、コメント等是非
では!
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