【揺らぐ“正義”と見つめる神】映画「陪審員2番」を徹底考察
どうもTJです
今回はつい先日、U-NEXTで独占配信された「陪審員2番」についてネタバレありで考察、レビューしていく
巨匠クリント・イーストウッドの引退作とも噂される今作だが、この作品で彼は何を伝えたかったのか
正義の女神、陪審員、鹿など作品内に散りばめられた様々な要素から今作の深層に迫っていきたい
あらすじ・キャスト
監督:クリント・イーストウッド
主演:ニコラス・ボルト
その他:トニ・コレット、J・K・シモンズなど
正義の女神
映画のオープニングクレジットでは、天秤と剣を持つ正義の女神が映し出される
正義の女神は司法の象徴として扱われており、目隠しは彼女が前に立つ者の顔を見ないことを示し、法は貧富や権力の有無に関わらず、万人に等しく適用されるという「法の下の平等」の法理念を表す(wikiより)
最初のカットでは、主人公の奥さんがサプライズのため、目隠しをされた状態が映される
どうやら子供部屋のプレゼントらしい
神は真実を見るため、そして正義を執行するために目隠しをするが、主人公は真実を隠すために(奥さんの)目を隠す
※この後、主人公は奥さんに嘘をつく
イーストウッドは開始数分で投げかける
私たち人間は、正義を執行できるのか?
陪審員制度
この問いはまず陪審員制度へと接続する
陪審員制度とは無造作で選ばれた一般市民が裁判に参加し、有罪が無罪かを判断する制度のこと
日本の裁判員制度と似たようなものだが、大きな違いとしてアメリカの陪審員は裁判官の助けなしで、有罪か無罪かの評決を出さなければならない
評決は全会一致で12人で行われるが、主人公は裁判の過程で、自分が被害者を殺してしまったことに気づいていく(このことは終盤まで主人公と観客しか分からない)
今作の素晴らしい点の一つとして挙げられるのが、キャラクターの造形だ
主人公は基本的に善人でありながら、家族のことを考え、犯人にはなりたくないという絶妙な心理的葛藤を見せる
主人公と秘密を共有する観客は、この葛藤に感情移入させられる
そして、容疑者を無罪にしたいが、真犯人(自分)は捕まえたく無いという実に人間的な主人公の願望は、他の陪審員たちを翻弄する
結果として陪審員制度は正義を執行できない
紆余曲折ありながらも、陪審員は全会一致で容疑者を有罪と判断されるし、前段階では、真実に最も近付いていた、シカゴの元刑事は主人公によって「ユダ」として追放される
※イエス・キリストの主要使徒は陪審員と同じ12人
法の限界、人の限界
観客のみに提示された秘密も、終盤になって女性検事は知ることになる
しかし、検事は選挙を控えているということもあり、真犯人を探すことを辞める
今作は法の、ひいては人間の限界を示している
法によって、最も真実に近付いていたシカゴの元刑事は追放されるし、人間による政治性によって女性検事は真犯人を追求することを諦める
「法律(司法制度)は無いよりはあったほうがよい」ものであり、完璧ではない
サイスの終身刑が確定した後、裁判所前のベンチで女性検事と主人公の両者は対面する
立場を違えど、真実の追求を諦めたという点では共通する2人
前にある正義の女神像の天秤が揺れる演出も、イーストウッドらしく精到でムダがない
女性検事は晴れて検事長になるわけだが、その後の同期生である国選弁護士との会話は対照的である
出世したのは、圧倒的に自分である一方で、真実を追求したのは国選弁護士だ
「これで満足か?」
この言葉を受け、女性検事は主人公の家に向かう
真実を見て見ぬふりをした両者が、ラストでは互いに見つめあう
女性検事の名前はフェイス
文字通りfaith(信念)であり、彼女は真実を見る、つまりは主人公を捕まえることを決意したと推測させる
主人公の名前はジャスティン
justice(正義)から由来すると推測できるが、果たして彼女の信念は正義へと結びつくのか
神の名の元に開かれる裁判、そして12人の陪審員
それでも人を裁くのは、神ではなく人である
その難しさをイーストウッドは提示する
総評
個人的に近年のイーストウッド作では、「運び屋」以上の素晴らしい出来だった
派手さは無いが、演出に無駄がなく、114分というコンパクトさも良い
それだけに、劇場未公開なのは残念ではあるが、これが引退作にならないことを祈るばかり
個人的評価は⭐︎4.0/5とさせて頂く
いかがだっただろうか
今後も新作、旧作問わず考察、レビューしていくので良かったらスキ、フォロー、コメント等是非!
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では!